一五世紀の末、文明一七(一四八五)年から十九(一四八七)年にかけて、二人の有名な僧侶が武蔵野を旅行している。一人は和歌の名人として知られた堯恵法印で、武蔵・上野・下野・信濃・越後等を旅した記録を「北国紀行」に書き残した。その中で彼は多摩郡のあたりを
(文明一八年)六月の末、角田川のほとりにて遠村夕立
雲わくるひかげの末も夏草にいるまの里やゆふ立のそら
同廿八日、武蔵野のうち中野といふ所に、平重俊といへるが催しによりて、眇々たる朝露をわけ入りて瞻望するに、何の草ばの末にも唯白雲のみかゝれるを、かぎりと思ひて、又中やどりの里へ帰り侍りて
露はらふ道は袖よりむらぎえて草ばにかへるむさしのの原
漸く日高くさし昇りて、よられたる草の原を凌ぎくる程、暑さしのび難く侍りしに、草の上にたゞ泡雪のふれるかとおぼゆる程に、ふじの雪うかびて侍り。
夏しれる空やふじのね草のうへの白雪あつき武蔵野の原
ほりかねの井ちかき所にて
そことなく野はあせにけり紫もほりかねの井の草ばならねど
とスケッチしているが、さすがに和歌の上手だけあってこの一節は武蔵野の景観とその美しさを実に巧みにとらえている。これによれば、武蔵野台地の現在の中野附近一帯は一一世紀「更級日記」で菅原孝標女のみたのとあまり変らない一面の草原で、依然として「尾花が末にかゝる白雲」(続古今集)のまま放置されていたらしい。
「北国紀行」とほぼ同じ時に書かれた旅行記が「回国雑記」である。著者の道興は関白藤原房嗣の三男、聖護院門主、大僧正、准三后という当時のVIPであった。しかし僧侶のことであるから比較的気楽に旅行を続け、文明一八~九年にかけて東北・関東を気ままに何度も巡歴している。「回国雑記」の中からいくつか引いて見ると、上野の杉本から武蔵の岡部へ行く途中の文明一八年九月、
むさし野にて残月をながめて
山遠し有明のてるひろ野かな
おなじ野をわけてくれてよめる
草の原分けもつくさぬむさしののけふを限りは夕なりけり
この夜はこの野に仮寝して、色々の草花を枕にかたしきて、少しまどろみ、夢の覚めければ
花散りし草の枕の露のまに夢路うつろふむさしのの原
武蔵のの草にかりねの秋の夜は結ぶ夢ぢもはてやなからむ
といった描写が見られる。これもまた、武蔵野の状景を描写してあますところがない。