「北国紀行」や「回国雑記」の著された文明一八(一四八六)年という年は
露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原
などの歌でも知られている扇谷上杉家の家老、太田持資(道灌)が暗殺された年で、山内・扇谷両上杉家の永年の不和がこれをきっかけに爆発し、度々の合戦が始るという非常に不穏な年でもあった筈である。ところが此等の紀行文について見ると、そうした不安な政情の気配は全く感じられない。これはやはり、筆者が軍事・政治に関係のない僧侶だからというばかりではなく、合戦が局地的なものであったということと、関東には権力者に巧みに距離を置きながら、中立的立場を維持していた武士たちが少なくなかったことを示すものではないだろうか。
こののどかな傾向は、これよりあとに書かれた連歌師宗長(宗祗の弟子)の紀行日記「東路のつと」においても同じである。永正六(一五〇九)年、関東では北条早雲が武士たちを征服し、上杉家の勢力争いにしきりと介入していた年であるが、日記にはそうした戦乱の様子をどこか別の所のこと、「遠い雷鳴」のように記している。そんな時でも中立を保つ武士もいたわけである。
八月十一日。武蔵国勝沼(多摩郡)といふ処に至りぬ。三田弾正忠氏宗此処の領主たり。(中略)
同十五日。氏宗、同じく息政定、これかれ駒うちならべ、むさし野の萩薄の中を過ぎ行きがてに、長尾孫太郎顕方の館はちがたといふ処につきぬ。政定馬上ながら口ずさびに
むさし野の露のかぎりはわけもみつ秋の風をば白川の関
このころ、越後の国鉾楯により、武蔵上野の侍進発の事ありて(この年七月上杉顕定、長尾為景と争ってこれを越中に逐う)いづこも静かならざりしかば、ひと夜ありて、翌日日たけて、長井の誰やらむの宿所へと送らる。夜に入りておちつきぬ。
一六世紀に入っても、武蔵野にはまだ原野が残っていたことがこれによっても知られる。そしてこれは合戦の場合、兵をかくすのには屈強のカムフラージュとなったことであろう。
しかしながら、同じ草原をながめていても、武蔵野は文化の果てだといった辺境観は、この一五・六世紀の紀行文からは影をひそめているようである。平安末から鎌倉にかけての人間ばなれした極地という受けとめ方にかわって、不便だけれども大自然の中にたくましく生きてゆく土地、何か未来の開ける土地という形に、武蔵野に対する見方が修正されてきていると考えられる。これは前代に比して大きな進歩であり、この武蔵野観の変化が、この後一七世紀末以降の、江戸を中心とした武蔵野の開発の底流の一部となっているのではないかとも思われるのである。