A 後北条氏の台頭

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滝山城趾

 関東の戦国時代は、後北条氏の興廃をもって象徴することができる。すなわちそれは、延徳三(一四九一)年北条早雲の伊豆国進攻にはじまり、天正一八(一五九〇)年北条氏直の豊臣秀吉への降伏をもって終結した後北条氏五代、一〇〇年の歴史である。
 北条早雲は、正しくは伊勢新九郎長氏というが、その出自には諸説あってナゾに包まれている(杉山博『北条早雲』名著出版、以下同書による)。妹が駿河国の守護今川義忠の妻だった縁故を頼って今川氏に寄食していたが、文明八(一四七六)年義忠の死を契機に起こった今川家の内紛を調停した功により、駿河国興国寺城の城主になった。
 当時の関東は、古河公方足利成氏(下総国古河)対堀越公方足利政知(伊豆国堀越)の対立に加えて、山内上杉・扇谷上杉の二大勢力が対立抗争する乱世のただなかにあった。早雲は、延徳三年堀越公方足利政知の死後起こった伊豆の乱に乗じて伊豆国に攻め入り、政知の子茶々丸を殺して伊豆国韮山に移った。明応二(一四九三)年正月、早雲は、初夢をみた。それは一匹のねずみが二本の大杉をかじり倒して虎になった、というもので、それを家臣に語って聞かせたと伝えられている。すなわちこれは、早雲は子年の生れなので、早雲が両上杉氏を倒して関東を征覇するという大望を語っているのである。やがて早雲は同四年相模国小田原の大森藤頼を追ってここを本拠と定め、永正一三(一五一六)年三浦義同(よしさと)を滅ぼして同国を平定した。
 こうして早雲は、後北条氏による関東征覇の第一歩を踏み出した。ところで、早雲の軍隊は、その編成においてこれまでの関東の武将のそれと根本的に異なっていた。つまり、従来の軍隊は旗本衆や馬廻衆とよばれた精兵中心であったが、早雲は、それに加えるに、百姓らからなる多数の雑兵を組織したのである。これはまさしく戦国の時代の軍隊編成であり、戦国時代の到来を象徴していた。早雲は、永正一五年はじめて、有名な「祿寿応穏」(財産と生命の穏やかなることを祈念した言葉)の虎の印判状を使用し、戦国大名後北条氏の権力の成立を宣言した。そして同年、家督を子の氏綱に譲った。
 北条の姓は、氏綱のときはじめて名乗った。後北条氏の系図(『寛政重修諸家譜』所収)によると、早雲(長氏)は、鎌倉幕府一四代執権北条高時の二男時行の子孫となっている。戦国時代は自己の血統の由緒正しさを主張するために、系図買いや系図作りが一般に行なわれたので、また上述のように、早雲の出自が不詳であるので、ただちにこれを信用するわけにはいかないが、関東の征覇をめざす後北条氏が、鎌倉幕府の執権北条氏の末裔を名乗ったことは、意味のあることなのである。つまり下剋上を行ない、権力を奪取し維持していくには武力だけでは十分でなく、そこには名門の血筋を引くという血統が重視されたのである。今日私たちが、小田原の北条氏を後北条氏と呼ぶのは、鎌倉幕府執権の北条氏と区別するためである。
 氏綱は今川氏からの独立をはかるとともに、関東管領上杉氏にかわって関東の覇権を握るために、武蔵進出を開始した。大永四(一五二四)年正月、扇谷上杉氏の南武蔵における拠点の一つである江戸城を攻略し、城主上杉朝興を河越城へ追放した。下って天文六(一五三七)年七月、朝興の死を機に河越城を攻略、さらに松山城をも落し入れ、江戸-河越-松山という武蔵国を縦断する線を確保した。これによって後北条氏は武蔵北部へ進出する足がかりをえることができた(加藤哲「北条氏照による八王子領支配の確立」『国学院大学大学院紀要』八)。