B 大石氏

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 後北条氏四代にわたる勢力拡大の状況は第一図のとおりである。ところが、その前に、後北条氏の武蔵進出をはばむもう一つの勢力として、武蔵西南部を領し、滝山城に拠る大石氏があった。大石氏は、八王子市下柚木の伊藤家所伝の「大石系図」によると、木曽義仲の二男義宗の子孫を称している。大石氏が史料的に明らかになるのは七代信重の代からであるが、同氏は武蔵の目代(守護代)を務める豪族であった。当時は定久(一三代)が滝山城主であり、山内上杉氏の老臣であった。大石氏の所領は、入間・多摩両郡内一三郷(所沢、志木、東久留米、青梅市の東部、福生市、秋川、五日市、八王子全域、町田市、日野市の一部、東村山)と、高麗・秩父両郡の一部(日高町の一部と飯能市全域)を本領としていた(栗原仲道「大石氏研究の成果と課題」『大石氏の研究』所収、名著出版)。所領の南側において、後北条氏と境を接していた。そのことは、天正一四(一五八六)年七月一〇日の当麻宿市争いについての関山隼人訴状に、天文初年以前のことと思われるが、「三田・大石御味方不申、当摩(麻)者境目」(貫達人編『相州古文書』第一巻)とあることによってわかる。後北条氏は永正年中(一五〇四~二一年)、当麻(たいま)を拠点に、小田原と北武蔵の石戸・毛呂とを結ぶ伝馬制度をつくろうとした(倉員保海「武蔵山の根地域と後北条氏」『関東戦国史の研究』所収)が、このことは当然、大石氏の勢力とぶつからざるをえなかった。後北条にとって大石氏の打倒は、武蔵攻略さらには関東征覇のための関門の一つであった。

第1図 北条4代の勢力拡大
『人物・日本の歴史』6より転載

 天文一五(一五四六)年四月、古河公方足利晴氏・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定らは連合して、今は北条綱成(氏綱の娘婿)の守る川越城の奪取をはかった。川越城の救援に赴いた北条氏康は、敵を油断させるために和議を申し入れ、その隙に二〇日の夜中、夜襲をかけて上杉勢を潰走させた。これがいわゆる川越夜戦(日本三大夜戦の一つとして知られる)である。それはまた、古河公方・両上杉連合軍八万余の軍勢を八千の兵で破ったことでも特記されている。この川越夜戦は、新・旧勢力の交替を決定的に象徴する戦いであった。この戦争で、滝山城主大石定久は敗れて降伏し、秩父の藤田邦房とともに後北条氏の軍門に下った。
 次いで天文二一年正月、氏康は上杉憲政を追って上野国平井の城を抜き、山内上杉氏を越後に走らせた。この平井の合戦の勝利によって、関東八ヶ国は後北条氏の支配下にはいった。こうして後北条氏は三代目氏康の時期に全盛期を迎えることになった。徳川家康は、氏康を評して次のように語っている(『東照宮御実紀』附録巻六)。
  北条家は早雲氏綱が代には、豆相両国のみ領せしを、氏康に至り次第に国を伐ひろげて、遂に東八箇国を全領せしなり、そのうへ氏康いまだ若年のころ、武州川越の夜軍にわづか八千の兵もて、上杉が八万三千の大敵を切崩し、武名を天下にかゞやかせし事、近き世にはめづらしき英傑といふべし、