二 大石氏の帰服と北条氏照

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 川越の夜戦で敗れた大石定久は、北条氏康に降伏し、その息子の氏照を婿養子に迎えて家督を譲り、みづからは戸倉(五日市町)に蟄居した。氏照が大石家を相続することが、定久の降伏を容れる条件であったと考えられる。このことによって、後北条氏は武蔵進出を果たし、関東を征服するための拠点を確保することができた。
 北条氏照は、氏康を父に、今川氏親の娘を母として生まれた。氏親は、戦国大名今川氏の基礎を築き、戦国家法の「今川仮名目録」を制定した人物として有名である。氏照の生年は、天文九(一五四〇)、一〇、一一年と諸説あって定かではない。いずれも、天正一八(一五九〇)年の享年からの逆算である。後北条氏の系譜(『寛政重修諸家譜』所収)によると、享年五一歳なので、生年は天文九年となる。ここではこれに従っておく。
 氏照が大石氏を相続した経緯について、「大石系図」の定久の頃は、
  天文七年戊戍十月属北条家、同十一月三日左京(氏康)大夫殿次男油井源三為養子譲家業、
と記載している。しかし氏照が、天文七年に家督を相続したということは、前述した氏照の生年からしてもおかしい。大石氏が後北条氏に服属したのが、天文一五年の河越の夜戦で敗れたあとであるので、これは一五年の誤解と考えるべきであろう。このように訂正した上で、史料を解釈すると、栗原仲道氏は、武蔵進出を企図していた北条氏康は、武蔵侵略の拠点として、多摩の名族由井氏を傘下に加え、氏照に由井氏の名跡を継がせ、その代々の名乗の「由井源三」を唱えさせた。それを定久が養子に迎えた、と理解されている(前掲)。次に、奥野高広氏は、天文のはじめごろ由比源三郎は北条氏康の子氏照を養子にしたが、源三はさらに武蔵の守護代大石定久の養子となって大石源三氏照と称したと述べて、「宗関寺記録」に、氏照は「初為大石氏定久継嗣、称由井源三」したと記すのを、由井氏の養子になったことと、大石氏の養子になったこととの二つの事柄の混同である、とされている(「由比源三郎と北条氏照」『府中市史史料集』五所収)。
 両氏に共通した点は、氏照が、はじめ後北条氏に服属した由井氏の跡を継ぎ、ついで大石氏の家督を相続したということである。ここには由井氏の存在が強調されている。しかし、管見の限りでは、この時期に由井氏の行動を確認できる史料はない。また、後述する氏照の奉行人のなかに、大石姓の者が四人確認できるのに比べ、由井姓の者は一人もいない。この二点において、通説をそのまま信じることはできない。
 氏照が大石氏を相続した経緯については、前記した「宗関寺記録」が事実を伝えているのではなかろうか。すなわち、大石定久の養子となって由井源三を称した、という理解である。この解釈は、『北条記』巻六に、
  (定久は)氏康に降参して、後に子なかりしかば、此氏照を聟名跡に申請、一跡をわたし申す、初の名は在名を名乗らせ由井の源三とぞ申しける、後には大石を改姓し、本姓に復し、北条陸奥守と申す。
とあることからもうなずけるであろう。在名(ざいみょう)とは住所の地名をとってつけた名前のことである。要するに、多摩の名族由井氏の遺跡は、それ以前に、武蔵の守護代大石氏の領有に帰していた。そのことは、永祿二(一五五九)年に作成された『小田原衆所領役帳』に記載される「由井領」が、前述した大石領のなかに含まれ、しかも天文一五年に至るまで大石氏の支配を受けていた(「大石氏関係文書集」五〇号文書、『大石氏の研究』所収、以下同じ)ことからも明らかであろう。この「由井領」が、氏照が定久の養子となって居住したところである。それは現在の町田市域の小野路・小山田から相模北部の相原・上溝・下溝・座間・落合付近である。定久は、氏照に由井氏の名跡を継がせたのである。あるいは、氏康が氏照を養子に送り込むにあたって名乗らせたのかも知れない。後北条氏の支配を武蔵国に浸透させるために、在地領主層をつかむための一方式として、旧豪族由比氏や大石氏の権威を一時的に借りたものと理解される(倉員保海「武蔵山の根地域と後北条氏」『関東戦国史の研究』所収、名著出版)。ちなみに氏照の妻は定久の娘比左といった(「大石系図」)。ここに後北条氏と大石氏の略系図を掲げておく(第二図)。

第2図 後北条・大石系図
数字は家督の順位

 戦国大名が征服した相手の家を自分の子供に相続させることや、政略結婚は、普通に行なわれたことである。そのことによって、そこに自家の勢力を扶植し、あるいは、権力者間の勢力の均衡がはかられたのである。後北条氏の場合、氏康は氏照以外にも、氏邦を秩父の藤田康邦、氏忠を下野国佐野の佐野宗綱の跡にそれぞれ入れ、景虎を越後国の上杉謙信の養子におくりこんでいる。