一 支領支配の開始

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 戦国大名後北条氏の領国支配体制の特色は、支城(領)制度であった。領国の要所に支城を配置し、それを取り巻く一定地域を支領として設定した。そして、本・支城間は発達した伝馬制度で結ばれていた。後北条氏の命令は、支城主を通じて領国に貫徹されたのである。
 支領としての滝山領の成立はいつだったのか。前述した永祿二(一五五九)年に作成された『小田原衆所領役帳』には「滝山衆」が記載されていないので、支領成立はそれ以降のことである。同書によると、やがて成立する滝山領の範囲は、他国衆の支配する地域であった。つまり、滝山城主大石定久の家督を継いだ氏照が、ただちに滝山領の支領主として政務をとったのではなかったのである。
 天文二〇(一五五一)年九月六日、大石定久は、小和田の広徳寺(五日市町)に寺領を安堵する書立を与えている(「大石氏関係文書集」四八)。それには、後北条氏の「祿寿応穏」の虎印が押されており、後北条氏によって定久の文書の効力を確認することが行なわれている。このことはまだ、旧大石領に対する同氏の支配力が残っており、後北条氏は大石氏を媒介にして在地支配に臨んでいたことを示している。定久は翌年八月一九日にも案下熊野宮(八王子市)の祢宜役を彦次郎なる人物に安堵した判物を出しており、その支配が続いていることがわかる(「大石氏関係文書集」四九)。ところが弘治三(一五五七)年一一月になると、旧大石領の高安寺(府中市)、西蓮寺・高乗寺(八王子市)、広徳寺、出雲祝神社(入間市)などの寺社に対し、棟別銭を免除する旨の虎印判状が一せいに出され、この地域に後北条氏の権力が直接浸透したことをうかがうことができる(加藤哲前掲書)。
 そのころ滝山城の城主は大石信濃守であった。『小田原旧記』は、天文二〇年ごろの武蔵国における後北条氏麾下の一人として、「武蔵の滝山城主大石信濃守」を、「三田城主三田弾正、松山城主上田安楽斎」などとともにあげている。また『小田原衆所領役帳』も同様である。この信濃守は、定久の弟定基とみなされる(「大石系図」)が、定久が戸倉に蟄居後、氏照にかわって在城していたものと考えられる。
 永祿二年一一月一〇日、祢宜の六郎太郎に小宮の宮本祢宜職を安堵した印判状が出されている(「北条氏照文書」二『北条氏照文書集』、以下同じ)。これは氏照印判状の初見である。第三図のように、年月のところに「如意成就」の印章が押してある(第四図)。印文の意味は、「意のごとく何事も成し遂げてやる」、ということであり、まさに施政に臨んでの氏照の決意のほどが表明されている。

第3図 氏照印判状


第4図 北条氏照の印章「如意成就」印
『北条氏照文書集』より転載

 永祿三年、氏照は本姓に復し、北条源三氏照と名乗った。「大石系図」は「始号大石永祿三年復本姓」と記載している。この本姓復帰は、後北条宗家の代替りと関連が深いだろう。佐脇栄智氏の研究によると、氏康が隠居して家督を氏政に譲ったのは前年の一二月三日であった(「小田原北条氏代替り考」『後北条氏の基礎研究』所収、吉川弘文館)。氏政の治世のはじまりを機に、氏照の本姓復帰がはかられ、氏照が後北条氏の一員として、旧大石領を支領として再編、支配する方針が打ち出されたのであったと考えられる。氏照印判状は、そうした方針のはじまりを示している。ここに、氏照による滝山領の支領支配がはじまったといえる。