二 滝山領の成立

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 滝山領の形成は、氏照の滝山入城をまって進展した。それは、旧大石領を母体に、青梅勝沼城主三田氏の領地を併せて領域とした。
 氏照の滝山入城は、永祿三(一五六〇)年には実現していたと思われる。すなわち翌四年にはいり、越後国の上杉謙信は、後北条氏を討つために関東に進軍、小田原に迫ったが、氏照が一色右衛門佐に宛てた同年二月二五日の書状によると、「仍北敵出張、既至于赤石陣取之由聞候間、従小田原不嫌夜中打透、一昨日極暮着城申候、昨日者万端仕置申付候条、是非被申入候」(『北条氏照文書集』)とあって、氏照は、上杉勢の侵入に備えるために、急ぎ小田原から居城(滝山城)へ帰城し、仕置万端を命じているのである。
 この年の上杉謙信の小田原攻めは、これまでに後北条氏に服属した関東の在地領主層の臣服の度合を試す役割を演じた。「関東幕注文」(『上杉家文書』一)という史料は、このとき後北条氏に背いた在地領主層の名前を書き並べているが、そのなかには、大石氏の一族とみられる「岩付衆大石石見守」や、青梅の「勝沼衆三田弾正」などの存在を認めることができる。三田弾正忠綱秀は、天文一五年の川越夜戦で敗れて、大石定久とともに後北条氏に降伏したが、上杉謙信の関東侵入を聞くや、後北条氏の支配を離れて、ふたたび上杉氏に呼応したのであった。後北条氏の武蔵支配はまだまだ完全ではなかった。
 氏照が、こうした反後北条の在地諸勢力を再征服する過程こそ、すなわち滝山領の形成過程であった。その最大の攻略目標が、青梅の勝沼城に拠る三田綱秀であった。
 三田氏攻略の模様は、およそ半世紀後の慶長一七(一六一二)年二月、三田氏の遺臣太郎重久信が書き記した「日記」と題する史料のなかにうかがうことができる(「谷合家文書」『定本市史青梅』所収)。それには、次のとおり記されている。
  永祿四年長尾景虎入道謙信与北条氏康関東ヲ争、小田原江攻入、北条氏康危、此節関東大略輝虎ニナビク、是ヲカケトラ乱ト云、三田弾正モ輝虎ニ与力シテ三田ニ住ス、同六年癸亥滝山ノ北条陸奥守氏照三田江取カケ攻ル、先手軍端ヲ渡檜沢ヨリ上ル、員野半四郎ト云者村山之地頭也、案内者故赤出立ニテ真先ニ上ルヲ鉄砲ニテ打ヲトサル、此鉄砲者伊勢之竜太夫三田殿江一挺進上申也、カラカイ(辛垣城)ニモ三田八十騎防所ニ、三田ノ家来塚田又八ト云者心カハリシテ、城ヘ火ヲカケ焼上ルニヨリ、綱秀不叶シテ城ヲ落ル(下略)、
 「日記」は、三田氏攻略の年を永祿六年としているが、加藤哲氏の研究(前掲論文)によると、三田氏の滅亡は、永祿四年七月から翌年四月ごろまでのあいだであった。氏照の三田攻略は、上杉謙信の関東侵攻、三田綱秀の呼応とともに開始されたのである。この戦いで注目されるのは、一挺の鉄砲が使用されていることである。天文一二(一五四三)年、九州の種子島にポルトガル人が二挺の鉄砲を伝えてから二〇年たらずのうちに、遠く離れた関東の地にも、伊勢の御師(おし)(竜太夫)によって鉄砲がもたらされたのである。その威力は大きく、久信を驚かせた。そのときの体験がここにその時の模様を記録させたのであろう。
 三田綱秀を滅ぼし、三田領を併合して、滝山領の領域は確定した。『小田原衆所領役帳』によると三田綱秀は、武蔵国の入東郡上奥泉・三木村、高麗郡河崎・大谷沢・草沢・にれの木・広瀬・横手郷・賀山・馬引沢・篠井・河越筋亀井郷を支配していた。その範囲は、氏照が発給した文書の分布によって、大概を知ることができる。下山治久氏の研究によると、「如意成就」印文の氏照印判状は、永祿二~一二年にかけての一一年間に使用され、すべて支領内を対象に二四通出されているが、それは滝山城の北は五日市谷・青梅谷から飯能・所沢の一帯、南は相模国高座郡座間、さらに遠く武蔵国久良岐郡富部に及んでいる(『北条氏照文書集』解題)。滝山領は、旧大石領(由井領を含む)を母体に、三田領を併せて成立したのである。昭島市域は滝山領のほぼ中央に位置し、しかも滝山城の膝下にあった。