B 滝山城

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 滝山領の拠点となった滝山城(第五図)は、大永元(一五二一)年、高月の城主大石定重が築き、移ってきた。同城は多摩川の南に連なる丘陵地帯にあり、複雑に入り組んだ地形を利用して、本丸を中心に放射状に砦が配置されている。城の背後は断崖絶壁で、多摩川に臨む天然の要害である。

第5図 滝山城址
『八王子史』下巻(一部加筆した)より転載。

 滝山城は近世の城下町と異なり、城下に家臣団の屋敷がつくられていなかった。城内に、有力家臣の半独立的な郭(信濃屋敷・刑部屋敷など)があるほか、一般の家臣の屋敷があった(大類伸『日本城郭全集』4)。しかし、それがどの程度に兵農分離=家臣団の在地性が払拭された結果を反映したものであったかはわからない。城の南側大手口(表門)通りをみると小城下町の形成がみられる。この地域には、今日でも大町・永宿・八幡宿・八日市・横山などの小字名が残っているが、とくに八幡宿・八日市・横山は城下三宿と称して毎月四、八の日六斉市が開かれた(『滝山城ものがたり』昭島市郷土研究会編)。滝山城に必要物資を供給する機能を担わされていたのである。
 通説(『郷土研究』他)によると、拝島は滝山城の城下町的存在であった、といわれている。しかし第五図により、城の構造をみると、拝島は滝山城の搦手(からめて)口(裏門)の方向に位置している。城とのあいだは、多摩川とその南岸の断崖とで隔絶されていた。近世に日光火消番に赴く八王子千人同心の往還道が、「八王子より中野村を越へ、八沢を経て作目村の地にて玉川を渡り、拝島村」(『武蔵名勝図会』)を通って開かれたのは、慶安年間(一六四六~五二年)である。しかるに拝島の宿場としての発展はそれ以降である。以上のように、拝島は滝山城の城下町とはいいきれない。にもかかわらず拝島がこの地域の一つの中心地であったことは、当時三と八の日に定期市が開かれていた(松村安一「西多摩地方史研究覚書」『西多摩郷土研究』五)ことや、のちに徳川氏の関東入部(天正一八年)後、支配単位としての「領」名に拝島の名前が冠せられたことなどから推測されたことであろう。

滝山城址より昭島市域を望む