滝山衆(氏照家臣団)の構造は、いまのところよくわかっていない。しかし、それが、氏照の相続した大石氏の旧臣を母体に、後北条宗家から付与された家臣や三田氏などの被征服在地領主層の旧臣を加え、さらに在地の土豪・地侍などを家臣団に編成して構成されていたことは容易に推定される。後北条氏の軍事編成は、有力な武将を寄親、在地の土豪・名主層を寄子として編成されていた。これは寄親-寄子制とよばれるが、滝山衆もそうした編成をとっていた。
永祿七(一五六四)五月二三日、三田治部少輔・師岡采女佑の二人に清戸番所詰を命じた氏照印判状は、家臣団支配のあり方をうかがうにたる史料である(「北条氏照文書」二〇)。それには、三田治部少輔・師岡妥女佑以下総勢四一人の名前を連記したあとに、
清戸二番衆当月十九日ニ在所を立先番ニ替候、然間従廿日六月四日迄、中十五日ニ候間、五日之早天ニ三田谷各在々所々を打立、五以前、箱根賀崎にて相集、此御書立ニ引合、一騎茂無不足、又無遅参様、引そろへ召列、可罷立、於清戸布施相談、番所可請取、
と指示している。この史料からわかることは、
(一)三田治部少輔・師岡妥女佑の二人が寄親として指揮をとっていること、
(二)三田谷の在々所々に住む土豪・地侍が寄子として編成されていること、
(三)かれらが清戸三番衆として六月五日からの勤務を命じられていること、
などである。三田氏の旧臣と旧三田領の地侍とが氏照権力の下で寄親-寄子制に再編成されたのである。また清戸番衆自体の編成をみると、史料の限りでは三番編成までしか判明しない(実際にはもっとあったと思われる)が、それぞれの在所を離れて一定期間(ここでは一五日間か)清戸番所(清瀬市)に詰めさせられたのである。それを統制した布施は、おそらく奉行人の布施兵庫大夫であったに違いない。
この清戸三番衆を動員する史料は、在地領主層を通した間接支配から一人ひとりの地侍を家臣化し、定期的に在所を離れて服務させる戦国大名型の支配が行なわれていたことを示している。こうした政策を通して、地侍を農村から遊離させ、家臣団化することがすすめられていった(以上は『八王子市史』下巻による)。
郷地町の紅林義夫家に伝存する氏照印判状は、寄親-寄子制にもとづく軍事力の編成を示している。
御書出
一拾貫文 宮寺之内久木寄子給
一七貫文余 三ケ嶋棟別銭夏秋分共
一陣夫 壱疋三ケ嶋但毎陣相定被下
一来九月迄五人上下御扶持御蔵出被下
以上
右如申上被下久木ニ、如前々相着可走廻候、若此上久木非分之刷も有之者、可申上其断、被仰付別人ニ可相着者也、仍如件、
酉七月八日(印文未詳) 一庵
奉
紅林八兵衛殿 (傍点筆者)
氏照の印文未詳の印判は、天正元(一五七三)年以降使用されている(『北条氏照文書集』解題)ので、この酉は天正元年か一三年ということになるが、同じ宮寺郷(入間市)に永祿一〇(一五六七)年に検地が実施されていることと、この書出が検地後の在地の編成を示しているとこととをあわせて考えるならば、この文書の年代は天正元年に比定する方が妥当なように思われる。
紅林八兵衛の出自についてはわからないが、今度宮寺郷の久木に在所を移され、同地の地侍を寄子として編成・支配することを命じられた。しかし、紅林八兵衛が寄親として在地に臨むことが、久木の地侍にすんなりと受け容れられない場合もある。「久木非分之刷」、すなわち在地に不服従の動きがあり、紅林八兵衛では地侍の掌握が不可能な場合、別人が寄親として送り込まれることもあった。
紅林八兵衛の軍事力は、自己の家臣と氏照の家臣で八兵衛に付属させられた寄子とからなっていた。
氏照は、紅林八兵衛の軍事力を経済的に保障するために、宮寺郷内の久木に寄子給一〇貫文の給与をはじめ、三ヶ嶋(所沢市)の夏・秋の棟別銭七貫文余、出陣毎に三ヶ嶋より陣夫一疋の徴収を許すとともに、来る九月までの期限つきであるが、紅林自身の家来五人に滝山城の御蔵から扶持を与えた。