次に、権力基盤としての在地に対する支配であるが、氏照の在地支配の実態をあらわす史料として、永祿一〇(一五六七)年九月一七日の宮寺郷志村分の検知状がある。その表題は、「宮寺郷志村分卯歳御検知之上、改而被定置御年貢之辻」である。検知は永祿一〇年卯歳に行なわれた。以下『八王子市史』下巻によると、この検知状は、永祿末年における氏照権力の到達段階を示している。検知の結果は、本・増の合計高五二貫八一六文で、在地に留保を認めた分の二八貫九三二文を差引いた残り二三貫八八四文が、「滝山御蔵江可納申」年貢の高である。その内訳は一二貫文本年貢・一一貫八八四文卯増であり、検知によって滝山城の収納分は二倍近くに増加した。このことは、氏照の権力基盤の充実を裏付けている。在地留保分二八貫九三二文の内訳は、二貫文宿屋敷・一貫四三二文社領・五〇〇文定使給・六貫文夫銭一疋一人之分ニ引・二貫文同郡代夫・五貫文百姓堪忍分・一二貫文[ ]辻であった。一二貫文のところが破損しており判明しないが、卯歳の検知に協力した在地の地侍・代官たちに代償として留保された分であったと推測される。しかし逆に言えば、その部分は当地の武士たちに課す軍役の基準になったわけである。これによって地侍は独立性を失ない、氏照の家臣に変質していくのである。また夫銭の一疋一人が六貫文と割安であり(小田原領の大部分は八貫文)、郡代夫の負担も二貫文にとどめこの外四貫文が氏照の収納分から支給されたらしいこと、さらに百姓堪忍分をおいたなどを考えると、在地を優遇し百姓の育成につとめたことがわかる。
要するに、氏照権力の到達段階を、
(一)当地方の地侍の年貢収納を安堵しつつかれらに軍役を課し、家臣団に再編したこと
(二)百姓層の直接把握は、検知状の宛先が代官(土豪)に一括されているところをみると未だであったが、将来の在地掌握のために、当面かれらの成長を育成する方向がとられたこと、
(三)滝山城主として武力、財力の充実をはかったこと、
の三点にわたって氏照権力の到達段階を認めうる(以上は『八王子市史』下巻による)。
なお第二の点は、天正一一(一五八三)年四月二七日、当時氏照の支配下にあった子安郷(横浜市)に対して年貢減免を認めた文書に、「廿貫文 午歳干損御用捨但脇百姓共ニ」とあるのによって、百姓を直接把握する基本的政策の進展をうかがうことができる。子安郷の年貢は八七貫四七〇文で、土豪の「関口外記助拘」になっていた。氏照は、二〇貫文を軽減するさい、右記の条件をつけて、関口外記助に隷属している脇百姓(小農民層)の保護と、かれらの直接掌握の姿勢を示したのであった(「北条氏照文書」九三)。
氏照権力は、在地の土豪・名主層を家臣化し、その下に隷属している直接生産者=脇百姓を把握する方向にあったといえる。