A 拝島

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 後北条時代の昭島市域については、史料上の制約が大きく、ベールに包まれている。
 拝島が滝山城の城下町でなかったことは前述した。
 拝島は、永祿一二(一五六九)年の滝山合戦のとき、甲斐国の武田信玄が本陣を布いた場所として有名である。同年九月、信玄は小田原の後北条氏を攻めるために、碓氷峠を越えて上野国に入り、武蔵国鉢形城の北条氏邦を攻めた。一方、小山田信茂の率いる武田の一隊は、甲斐国郡内から直接武蔵国へ入った。氏照は、武田軍は檜原口から侵入してくるとみて、五日市の奥、本宿の檜原城を中心に守りを固めたが、武田軍はその裏をかき小仏峠を越えて侵攻してきた。滝山勢は檜原から取って返し戸取山で武田軍を迎え撃ったが、敗れて滝山城に立て籠った。それを聞いた信玄は、鉢形城はそのままに滝山城に向い、多摩川の対岸拝島に陣を張った。後北条側は守勢にたたされたが、結局信玄は滝山城を攻略できず、本来の目標である小田原城攻撃に向ったので滝山城はことなきをえた(『滝山城ものがたり』)。だが戦後、氏照は、武田勢が小仏峠を越えて侵攻してきたことを重視し、城を八王子に移転した。それについては「滝には落つると云事あれば禁忌なりとて八王子に移」(『北条記』)ったという言い伝えがある。滝山城の移転は、もちろん戦略上の見地からであった。
 拝島で看過されないのが大日堂の縁起である。大日堂は、徳川氏の関東入部(一五九〇年)のとき、家康から寺領一〇石を与える旨の朱印状を賜わった、当地の有力な寺院である。その縁起については、『新編武蔵風土記稿』もとりあげている。ここでは、『村山市史』所載の「乙幡文書」によって、その伝承をみてみよう。

大日堂全景(拝島山密厳院浄土寺真景全図より)

 一 武蔵多摩郡八王子拝島大日堂之開基ハ、むかし北条うじなをの御臣下ニ石川土佐守惣領之息女お禰いどのと申御方、七才の節ひかんの煩を被成、両眼ひしと見へさるところに、てんやく療治懸といへとも叶さるによって、仏神ニ祈ヲつくす処ニ、□ニ拝島ニむかし辻堂あり。誰の作とハなけれとも、天道大日の尊像なるゆへ、父母願をかけ三七日けっさいしてこもり、壱人の娘眼病をせめて一がんなりとも御ほうへんにてあき候ハゝ、一門一家をつくし御堂建立したてまつらんとふかく心信し奉れば、其年秋八月右眼つふれ左はあき候ゆへ、一門をつくして御堂を建立したてまつる。其てうほん石川土佐守、二番ハ三田弾正小弼義宗、其弟羽村兵衛太夫義尚、三沢兵庫助、目りん是心入道、土屋衛門、追畠孫三郎、有山内記、彼是はち方の者共以上拾六人御堂建立致し、本尊之御座の下地ヲ壱丈弐尺ほり、永楽千貫後修覆のためうつめおきたるよし子孫ニ言伝有之、御堂のむな礼ニ慥ニ有之よし永申伝来也。其後彼娘成長の後、うしなを公より縁組仰出、羽村兵衛惣領左源太と申ニ被下候処に、小田原一戦の時分一門五拾七人松山の城、小田原本城、高野山三ケ所にて相果、子孫たんせつニ及候。右ハ大日への御奉公のため、我等承伝への通是ヲ書印遺候。若脇より如何様のひはん候とも、此大日之根けんハ、我等より外ニ委存知、只今ハ相模、八王子の者ニも覚有間敷と存候。石川土佐守殿御領分八王子之内拝島、羽村、久保、天間、高築五ケ村の主のよし申伝候。(以下欠) (「乙幡家文書」『村山市史』より転載)
 石川土佐守なる人物が大日堂の開基といわれている。彼は「乙幡家文書」によると、北条氏直(後北条氏五代の当主)の家臣で、「八王子之内拝島・羽村・久保・天間・高築五ケ村」の領主であった。しかしこれには疑問がある。氏直の家臣が滝山領主氏照の居城周辺に所領を与えられていたのだろうか。石川土佐守が氏直の家臣であったにしても、彼は天正一八(一五九〇)年七月の後北条氏滅亡後、当地に帰農して来ていたのではなかったか。『新編武蔵風土記稿』に、大神村の名主八郎右衛門に関して、「当村の旧家にて石川を氏とす、先祖は拝島村大日の縁起にみえたる、石川土佐守が氏族の者と云伝たれど、祖先のこと伝へたる証左なし、」という記載がある。この伝承は、石川土佐守の帰農説を想定させる材料の一つとなるだろう。