B 後北条遺臣の帰農

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 後北条氏の滅亡後、遺臣のなかには他の大名に召し抱えられたり、家康に召し出されて旗本になった者も数多くいるが、大部分の下級家臣は帰農した。
『新編武蔵風土記稿』をみると、そうした系譜を伝える旧家が多数判明する。松村秀一氏の集計によると、昭島市域の周辺では三田領八・小宮領一〇・拝島領二・山口領二・柚木領七・由井領六の三五人があげられる(「西多摩地方史研究覚書」『西多摩郷土研究』五)。そのほか、『新編武蔵風土記稿』の調査段階ではすでに系譜を明確に出来なかった不明の三九人を考慮すると、帰農した後北条遺臣の数はもっと多かったはずである。
 さて拝島領の二人は、拝島村の百姓孫左衛門と柴崎村の百姓伝次である。『新編武蔵風土記稿』の記述は次のとおりである。
  百姓孫左衛門 乙幡を氏とす、古より里正を務む、先祖は乙幡勘解由能忠と号して、大石源左衛門尉定久に仕へ、その子助七郎只次、其子六右衛門能正に至り、北条氏照に仕へしが、かの家滅亡の後子孫民間にくだり、当村に居住するよし、
  百姓伝次 五十嵐を以て氏とす、小田原北条に仕へし五十嵐小文次といふものゝ子孫の由にて、同族九戸あり、
 また、大神村の百姓八郎右衛門については前述した。以上のほかに『新編武蔵風土記稿』の記載にもれた後北条遺臣の昭島市域への帰農があった。
 郷地町の紅林義夫家の先祖は、そうした一人であったと思われる。立川市の玄武山普済寺に、慶長(元年は一五九六年)より元祿六(一六九三)年ごろまでの物故者を記帳した「古過去帳」があるが、その九日条に、
 道桂    元和辰ノ年八月 郷地八兵衛殿御老父也
 妙珊禅定尼 寛永六年正月 江地ノ八兵衛殿
           シウトバゝ也
と、郷地村八兵衛の父と姑(シウトバゝ)二人の法名と没年が記帳されている(白川宗昭氏による)。紅林家には後北条時代の文書が四点伝来する。文書の宛名は「紅林八兵衛」である。この「紅林八兵衛」と「郷地ノ八兵衛」との関係を推断できる史料はないが、普済寺過去帳に八兵衛の在所が「郷地」とあること、紅林家は累代郷地村に居住していたこと--そのことは同地の宝積寺との因縁が深く、先祖に当寺の住職二人を出していることからもわかる--などを勘案すると、時代の近時性から、二人の八兵衛を結びつけて考えることが可能なのではあるまいか。そこに父子の関係が推測されるとすれば、過去帳の「道桂」は紅林文書の「紅林八兵衛」に比定される。しかし、いまはこれ以上のことはわからない。