C 紅林文書

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 紅林義夫家に伝来する文書は、昭島市域に伝わる唯一の中世文書である。貴重な文化遺産であるので、以下にそれを紹介したい。
一 北条幻庵感状(史料編一)
 御厩陣の砌、走り
 廻るに依って、感状并御太刀
 下され候、各おの面目之至に候、
 仍って太刀一腰これを遣し候、
 向後においていよいよ戦功をつくすべき
 もの也、謹言
 三月十一日          宗哲(花押)
    紅林八兵衛□(尉カ)殿

北条幻庵感状

二 北条氏政感状(史料編二)
 去十三夜、敵陣へ
 忍入、陣際において敵壱
 人松長左大夫と合討高
 名神妙に候、仍太刀一腰
 これを遣し候、猶戦功を抽ずべきもの也
 仍件んの如し
  元亀二年辛未
    二月十五日     (花押)(氏政)
         紅林八兵衛殿

北条氏政感状

三 北条氏照印判状(史料編三)
   御書出
 一拾貫文   宮寺之内久木寄子給
 一七貫文余  三ケ嶋棟別銭夏秋分共
 一陣夫    壱疋三ケ嶋但毎陣相定被下
 一来九月迄五人上下御扶持御蔵出被下
   以上
 右申し上るごとく久木ニ下さる、前々の如く、相着き、走り廻るべく候、若此上久木非分之刷もこれ有らば、其断を申し上ぐべし、別人ニ仰付られ相着くべきもの也、仍件んの如し
    酉七月八日(印文未詳)
                        一庵
                          奉
            紅林八兵衛殿

北条氏照印判状

四 おなへ母書状(史料編四)
 かへす/\此□文給わり候ハゝ
 なつめ(夏目)孫三殿と御たつね候て給わり候へく候
 三郎四郎とのにゆかしく候
 なんとき候ハゝ文を給わるへく候
 たのみ入れ申し候、以上
こま/\と御文給わり候、たしかにとゝき申し候、さてさてそののちいつかたとも存ぜず候て、ふみにても申さず候、御ゆかしき□(事カ)候つる、おなへもせいしん(成人)い[  ](たしカ)候て、ゑん(縁)ニつき申し候□(てカ)、二ッになるおのこ(男子)いてき申し候、しかるへきゑん(縁)にて候間、御心安有るべく候、われ/\□にい(居)申し候時、御文・かね(金)ととき申候、御うれ[  ](しく候カ)、らい年春めき候ハゝ、御こし(越)行候、御けんさん(見参)申□(度カ)候、くれくれ三郎四郎とのへ御ねんころ□存じ候、去年も文ととき申し候、御返事申し上げ候、とき/\(とときカ)申さす候や、御もとなく候、おなへいもうと(妹)御入十二ニ罷成候、おさなき人□らしめてたく候、又々はましまとの(浜島殿)しきよのよし申かたなく候、いそきさうさう(早々)申し候、かしこ
  十月十一日                                   おなへはゝ
 くれ林八兵衛殿

おなへ母書状

 一号文書 「御厩陣砌」は、永祿一〇(一五六七)年、後北条・武田の連合軍が、上野国厩橋で越後国の上杉謙信を破った戦いである。「宗哲」(幻庵)は、北条早雲の子で明応二(一四九三)年に生まれ、天正一七(一五八九)年一一月一日九七歳で死んだ。後北条氏五代の柱石として活躍した人物である。紅林八兵衛は、厩橋の戦いで軍功をたて、幻庵宗哲から感状(武将が部下の戦功を賞して与える文書)と太刀一腰を賜わった。
 二号文書 元亀元年、甲斐国の武田信玄は北条康成が守備する駿河国深沢城を攻めた。北条氏政はみづから兵を率い、同城の救援に赴いた。紅林八兵衛もそれに従軍した。二月一三日の夜、敵陣に忍入り、松長左大夫を一人討ち取った。氏政はそれを賞して八兵衛に太刀一腰を与えた。
 三号文書 天正元(一五七三)年の文書と推定される。紅林八兵衛の存在形態が具体的に知られる。紅林氏が滝山城主北条氏照の家臣であったことがわかる。その出自は未詳であるが、このとき、宮寺郷の久木(入間市)に寄子給を与えられた。氏照麾下の寄親として寄子を統制した。
 四号文書 年代不詳。紅林八兵衛の出陣中に娘のおなへが「はましま」殿と申す者に縁付いて、二歳(数え年)になる男児が誕生したことを報じた妻の書状である。陣中から八兵衛の子細を極めた手紙が届くことを喜ぶ反面、夫の在陣先がつかめず返事を書くことが思うようにできない妻のもどかしい気持を述べ、来春はぜひ見参したい旨の強い希望を述べている。