A 秀吉の統一事業

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 天正一〇(一五八二)年六月二日、織田信長は家臣の明智光秀の謀反にあって本能寺に斃れた。当時中国の毛利氏攻略中の豊臣秀吉は、信長の死を知ると毛利方との講和を急ぎ、京都に取って返して山崎の戦いで光秀を破り、いち早く信長の後継者としての名乗りをあげた。翌年四月、秀吉は信長の子信孝・柴田勝家と賤ケ岳に戦い、敗れた勝家は越前国北庄城で自刃した。やがて信孝も自殺し、秀吉の全国征覇の基礎が築かれた。一二年、徳川家康と小牧・長久手に対陣したが和議がなり、家康は秀吉に従った。一三年四国の長曾我部元親、一五年九州の島津義久などの地方政権を征服した。全国統一のためにはあと、関東の後北条氏との対決が避けがたく残っていた。
 秀吉の統一政策は、太閤検地と刀狩りに代表される。太閤検地は、天正一〇年七月山崎の戦いののち山城国に実施したのを皮切りに、慶長三(一五九八)年八月に死ぬまでの期間、勢力の拡大にともなって全国津々浦々にわたって施行された。それは、土豪や百姓の強い抵抗を打ちくだいて、統一政権を強化するためなみなみならぬ決意で強行された。たとえば、天正一八年八月二〇日、すなわち奥羽平定の直後、秀吉が検地奉行の浅野長政に与えた指令書には、検地に反対する者は、「城主にて候はば、其もの城へ追入れ、各々相談、一人も残置かず、なでぎりに申付くべく候。百姓以下に至るまで、相届ざるに付ては、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。」(『浅野家文書』)、たとえ亡所になってもかまわないと述べている。
 太閤検地はそれまでの戦国大名の指出検地と違い、有能な部下を検地奉行として全国に派遣し、直接、統一的な基準でもって検地したところに意義がある。一歩(一坪)を六尺三寸四方と定め、三〇〇歩を一反とし(町反畝歩の制)、田畑の石盛を定め、田畑の品等を上・中・下・下々に分かち、石盛に用いる枡を京枡に統一し、土地の標準生産高(石高)を算定し、近世の石高制の基礎を築いた。また村単位に検地を行ない行政村落としての村制度を定め(村切り)、耕地一筆ごとに直接生産者農民を名請人、すなわち年貢負担者として掌握するなど、これまでの複雑区々な土地・農民支配と作合(さくあい)とよばれる中間搾取を否定する新しい支配方式を全国に貫徹した。太閤検地を起点に、直接生産者農民の自立が促進されることになり、幕藩制社会の基礎となった。太閤検地によって把握された石高は、農民への年貢賦課の基準となるとともに、秀吉の支配下にある大名への知行給与の基準、軍役賦課の基準となった。
 また天正一六年の刀狩令は、方広寺大仏殿建立の釘にするという口実の下に、反乱や一揆を防止するために、百姓・土豪から武器をとりあげ、兵農を分離して農民を土地から離れられなくしたものであった。
 こうして農民は直接生産者=年貢負担者として土地に束縛され、身分制度によって武士階級に支配される、幕藩制社会が生み出された。