秀吉と後北条氏の対立は、上野国沼田城をめぐる一件が原因で起こった。天正一〇年六月本能寺の変で信長が不慮の死を遂げると、信長の領分上野・信濃・甲斐三国は、後北条・徳川・上杉三氏の争奪の対象となった。やがて、後北条・徳川両氏は一〇月二九日和議を結び、信濃・甲斐二国を全部徳川氏の領分とするかわりに、徳川氏は後北条氏が上野国を領有することを認めた。当時上野国沼田城には、家康に属した真田昌幸がいたが、徳川・後北条両氏の和睦条件の一つである上野国を後北条氏に渡すことに反対し、沼田城の明渡しを承知しなかった。家康は替地を提案したが昌幸は従わず、真田氏は家康を離れて秀吉を頼った。天正一三年八月後北条氏、ついで閏八月徳川氏が沼田城を攻めたが、陥れることができなかった。翌年八月秀吉の調停で和睦が成立した。昌幸は沼田城を確保することができたが、後北条氏はこれに対して不満であった。
天正一六年四月、秀吉は諸大名を京都の聚楽第に集めて、後陽成天皇の行幸(ぎょうこう)を仰いだ。このとき、秀吉と家康のあいだで東国の問題が話し合われたようで、こののち秀吉と後北条氏との関係はようやく不隠となった。しかしその場は家康の斡施によって事無きをえ、八月氏直の叔父韮山城主の北条氏規が名代で上洛し、秀吉に謁した。氏規は、秀吉の斡施によって真田氏が沼田城を明渡したならば、氏政・氏直のいずれかが上洛し、秀吉に謁するであろうことを伝えた。これに対し秀吉は、問題の経緯を述べる使者の上洛を求めた。天正一七年春、後北条氏は板部岡江雪斎を使者にたて、天正一〇年の和睦条件を述べ、家康の違約を申し立てた。
そこで秀吉は、沼田城に沼田領三分二をつけて後北条氏に与え、奈胡桃城に沼田領三分一を添えて真田氏に与え、三分二の替地は徳川氏に出させることにした。そして氏政父子のうちいずれか上洛して出仕すべきことを命じた。氏政は、自ら一二月上旬を期して上洛すべき旨を答えた。その返事をえて秀吉は、沼田領を後北条氏に引渡した。しかるに後北条氏は真田氏に与えた奈胡桃城までも奪ってしまった。昌幸の訴えを聞いた秀吉は大いに憤り、一一月上旬大谷吉継を駿府に派遣し、家康に氏政父子を誅伐せざるをえない旨の決意を語った。こうして、後北条氏は秀吉との対決を迎えるに至ったのである(以上は相田二郎『小田原合戦』による、名著出版)。