A 小田原合戦

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 天正一八(一五九〇)年三月一日、秀吉は京都を出発した。率いる軍勢は、二一万余の大軍--徳川家康三万・東海道北上軍一四万余・水軍一万余・北陸支隊(上杉景勝・前田利家ら)三万余--であった。これは、関東・東北を除く全国の諸大名に命じて動員された。二七日沼津の三枚橋城に着き、早速、小田原の支城山中城と韮山城を攻撃した。四月六日、秀吉は箱根湯本に到着し、石垣山に城を築かせた。秀吉は京都から淀君を招き、諸大名にも女房を呼び寄せさせるなど、持久戦の構えであった。
 一方、後北条氏は秀吉が九州征圧に成功した天正一五年より秀吉の小田原征伐のあることを想定し、領国内の支城を整備し、兵糧をあつめ、武器をつくらせ、一五歳から七〇歳までの領国内の男子の総動員計画を発表するなど準備に怠りがなかった。そうして北条氏直は、五万六千の軍勢でもって小田原城に立て籠もった。小田原城は、城下町全体がまわりを郭で囲まれた構造の城であり、長期の籠城にも耐えうるようになっていた。囲郭の内外は、九つの口で結ばれており、各口の守備には、江戸口=松山城主上田朝広・山角定勝・北条繁広、渋取口=津久井城主内藤量豊・小幡信貞、井細田口・久野口・萩窪口=岩槻城主太田氏房(氏政二男)・長尾顕長・北条氏克・北条直重(氏照養子)、水尾口=佐野氏忠(氏政弟)、湯本口・上方口・早川口=八王子城主北条氏照・松田憲秀、などの一族の支城主・重臣が当たった。氏照の率いる軍勢は四五〇〇騎であった。主力を小田原の本城に結集して戦うのが、後北条氏の作戦であった。各支城は留守部隊が守備した(以上は『戦国合戦総覧』による、新人物往来社刊)。
 合戦の模様は諸書に譲り、ここでは割愛する。豊臣側は、かなり詳細に後北条方の軍備状況を調査した模様である。『毛利家文書』に所収された「北条家人数付」・「関東八州城覚」には諸城の動員力が記されている。そうした綿密な調査の上で攻撃がなされた。後北条方の主要諸城の喪失過程をみると、上杉景勝・前田利家らの北陸支隊は、松井田(上野国)・川越・松山・鉢形(以上武蔵国)の各城を順次抜いたあと、六月二三日の未明、上野・武蔵両国の降伏者を先導として一万五千の兵で、氏照の部将横地吉信・中山家範・狩野一庵・金子家重・近藤助実らが守る八王子城を攻撃、午後には城はまったく豊臣軍の手に落ちた。徳川家康の軍勢は、玉繩・江戸・佐倉・関宿・古河の各城を攻略した。その他、豊臣方に落ちた城は、山中・下田・佐野・小山・榎本・岩槻・館林・韮山・津久井・忍の各城でなかには戦わずして開城したものもある。まわりをすっかり敵に包囲されて、小田原城が最後に残った。
 しかし、小田原城も七月五日、氏直が秀吉の降伏勧告を容れて開城した。氏直は、死は許されたが、高野山に放逐された。氏政・氏照は、城を出て医師田村安栖の屋敷に蟄居したが、一一日、秀吉によって自刃させられた。氏照は、辞世の句、「吹きとふく、風ないといそ花の春、紅葉の残る、秋あらはこそ」(『関八州古戦録』)を詠んで果てた。こうして、五代一〇〇年にわたって関東を支配した後北条氏は滅亡した。