B 敗北の原因

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 なぜ後北条氏は敗北したのだろうか。その理由を検討してみよう。
 前述した総動員計画に、後北条氏の権力構造の実態がよくあらわれている。軍事力動員のための掟書が天正一五年七月晦日、領国内の各郷村にいっせいに出されたが、それには次のように指示してあった(相田二郎『小田原合戦』)。
  一於当郷侍凡下、自然御国御用之砌、可召仕者撰出、其名を可記事、
  一此道具弓鑓銕炮三様之内、何成共存分次第、但鑓ハ竹柄にても木柄にても、二間より短ハ無用ニ候、然者、号権門之被官、不陣役者、或商人、或細工人類十五七十を切而、可記之事、
 すなわちここには、
 (一) 戦争のときには、郷村にいる侍と一般住民との区別なく動員すること、
 (二) 権力のある者の家来と称して陣夫役を勤めない者・商人・細工人も例外なく、一五歳以上七〇歳以下の者のうちから動員すること、
 (三) 武器は、弓・鑓・鉄砲三種類のうちいずれを使用してもよいこと、
の三点をうかがうことができる。後北条氏は、通常の家臣団以外に、郷村の百姓をはじめ一般の住民を兵力として徴集せんとしたのである。そしてここからは、後北条領国がいまだ兵農あるいは兵商未分離の状況だったことがわかる。豊臣政権下の大名領国が、太閤検地と刀狩りを通じて兵農分離が進行し、戦争を専業とする武士と貢租負担者の百姓とに分離した社会の編成をたどりつつあったのと比較して、後北条領国の遅れた側面があらわれている。
 また、天正一七年一二月九日、氏直が発令した後北条軍の兵賦編成によると、軍役は、一四五人賦・三〇人賦・二〇人賦・六人賦・五人賦・二人賦という単位で物主(軍役を負担し若干の士率を引率する部隊長)に掛けられている。この点も豊臣軍が、東海・東山・北陸は本役、山陰・山陽・南海は半役、畿内は三分一役とし、本役一万石に付五〇〇人の動員といった、石高制に依拠した動員体制であったのと異なっている。また武器は、一四五人賦のばあい、弓二〇張・鉄砲二〇挺・槍四〇本、三〇人賦弓二・鉄砲二・槍一〇、二〇人賦弓二・鉄砲二・槍五、のように鉄砲の比重は弓と同一である。天正五(一五七七)年「岩槻城諸奉行結番并掟書」(『豊島・宮城家文書』)によると、小籏一二〇余本・鑓六〇〇余本・鉄砲五〇余挺・弓四〇余張・歩者二五〇余人・騎馬五〇〇余騎であった。なおこの史料には「陣庭之取様肝要候、大方陸奥守(北条氏照)陣取之模様ニ可取」とあって氏照がすぐれた軍略家であったことをうかがわせる記述がある。後北条氏の兵力増強度を籏指物・弓・鉄砲・鑓・騎馬・歩者について、元亀二(一五七一)年を基準にして天正一五(一五八七)年と比較すると、それぞれ二・七、一、二・一、〇・九六、〇・五六、一・八の倍率になる。すなわちこの期間、鉄砲衆の増強に主たる目標があったと思われる。しかし、弓と鑓はほぼ大差なく、騎馬は急減している。鉄砲の増強に力を注いでも結局は、馬廻りの歩者や旗指物持など軽装備と腰刀だけの衆が増強されることになったのである(『八王子市史』下巻)。このことは、天正一五年の総動員計画が反映されていることを裏付けている。豊臣政権が鉄砲隊の数を誇ったことと対照的である。こうした軍事力の内容では豊臣軍に対し抗すべくもなかった。
 結局、後北条氏の敗北は、秀吉の統一権力と比べて、権力の質的な段階差に原因があったのである。かつて北条早雲は百姓を軍隊に編成して関東に新しい時代の幕を開いたのであるが、いまはその百姓に兵農分離の政策を徹底しきれず、兵農分離を新しい権力支配の原理にまで高めた豊臣政権のまえにもろくも崩壊したのである。