C 家康の後北条氏滅亡予言

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 『東照宮御実紀』附録巻五によると、徳川家康は早くから、後北条氏の滅亡する日の早いことを予言していたといわれる。
 天正一〇年六月二日の本能寺の変で信長が斃れたあと、徳川・後北条両氏のあいだでその遺領の争奪が起こり、年末一応和議の成立したことは前述した。その和睦条件の第四は、家康の娘を氏政の長男氏直に嫁がせることであった。約束に従って、翌一一年八月一五日、家康の娘督姫は北条氏直へ入輿した。しかし、家康と氏直の父子の対面はまだ済んでいなかった。それから三年後の一四年三月、三島(現静岡県)において氏政・氏直父子と家康の対面が行なわれた。家康が後北条氏の滅亡を予言したのは、その対面を終えて駿府城へ帰ったときであったという。
  小田原よりかへらせ給ひし後、本多正信にむかはせられ、北条も世が末に成たり、やがて亡ぶべし、松田と陸奥守と二人の様にて知れりと宣ひしが、果して後に敗亡のさま、松田の反覆はいふ迄もなし、陸奥守氏輝も、氏政なくば氏直を軽視して、その国政をほしいまゝにせんかとの、御推考にたがはざりしとぞ、
 松田は後北条氏の老臣松田憲秀、陸奥守氏輝は北条氏照のことである。この二人の人物をみれば、後北条氏の運命の行末が知れる、というのである。これには対面の宴席において、松田憲秀が氏政の御機嫌をとるために、客の家康をば悪し様に扱ったことと、それを同席の氏照が黙視してたしなめなかったということ(同前)などが起因しているだろう。松田憲秀は、小田原合戦のさい、秀吉に内通し、後北条氏敗北の誘因をなしている。彼の行動には、より強大な権力者へのおもねりがある。家康の氏政父子との対面を、憲秀は家康の後北条氏への服属ととったのである。氏照は氏直の叔父であるが、当時後北条氏のなかで随一の政治的手腕をもち、対外的に後北条氏を代表する存在であった。その氏照の心中に、家康は、彼の野心をみてとった。こうした後北条方の指導層のあいだの結束の乱れのなかに、家康は後北条氏滅亡の遠くないことを見い出したのであろう。家康のこの氏照評は興味深い。