A 関東入部

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飲中八仙図杉戸絵(龍津寺)


寛文検地帳(田中町乙幡ツネ家所蔵)

 八朔は、近世全期を通じて幕府の重要な祝日であった。天正一八(一五九〇)年七月五日、北条氏直は豊臣秀吉に敗れて降伏し、小田原城を明け渡した。その後秀吉は、徳川家康に旧後北条領国=関東への転封を命じた。八月一日は、家康が江戸城に入った日で、家康はその前に関東に入っているが、後世この日が、徳川氏が全国征覇の基礎を築いた記念すべき日として受け止められていったのである。
 家康の関東転封は、秀吉の全国統一後の新しい統治体制を樹立する作業の一環として行なわれた。これまで秀吉は、征服地にたいし、国分(くにわけ)・国替(くにがえ)を実行し、大名の創出と再配置を行ないながら、統一政権の勢力を全国に拡大してきた。いま関東が平定されても、まだこのあと東北が残っていた。秀吉が東北の諸大名を征服し、真に全国支配者の地位を確立するためには、後北条氏の滅亡による関東の動揺を収束するために、そこに強力な大名を配置する必要があった。ところで家康は、転封直前の天正一七、一八年に、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐五か国の領国に総検地を実施し、給人(大名の家臣で土地の支配者)の自立的な在地領主的性格を否定し、土地と農民を大名が直接把握する領国の支配機構を確立していた(所理喜夫「関東転封前後における徳川氏の権力構造について-特に天正一七、一八年の五ヶ国総検を中心にして-」『地方史研究』四四)。秀吉はそうした家康の統治能力を見込んで、家康に天下統治の片棒をかつがせたのである(川田貞夫「徳川家康の関東転封に関する諸問題」『書陵部紀要』一四)。そのための関東転封であった。
 家康の重臣には、この転封を聞き、「もしさる事もあらば、僻遠の地にかがまりて、重ねて兵威を天下にふることかなふまじとてひそかに歎息す」(『東照宮御実紀』附録巻六)る者があった。しかしこれに対し、家康は次のように心中を語ったと伝えられている。
  もしわが旧領に百万石も増加せば奥州にてもよし。収納の善否にもよらず。人数あまためしかかへて。三万を国に残し。五万をひきゐて上方へ切て上らんに。我旗先をささへん者は。今の天下にはあるまじ。
 兵農分離と石高制に基礎づけられた新しい支配原理をつかんだ家康には、領土の拡大は、「検地帳の長さ」と「家臣団の数」、すなわち圧倒的な経済力と軍事力を獲得するための、絶好の機会だったのである。この伝承には、次の「天下人」をねらう家康の自信にあふれた姿をかいま見ることができる。