B 知行割

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 関東における徳川氏の新領土は、武蔵・相模・伊豆・下総・上総・上野の六か国、石高にして二四〇万石余だった。入部した家康にとっての緊要の課題は、北条氏の滅亡後の領国の混乱した事態を収拾することと、周囲の敵性大名に備えること、であった。そのために、強力な軍事体制を整えるために、家臣団に対して知行地の配当を急ぐことであった。
 新しい支配者の施政に対して、旧来の在地勢力が抵抗することは、普通に起こった。たとえば、天正一五(一五八七)年肥後の佐々成政の検地に反対した国人(こくじん)(在地領主)の一揆、同一七年小西行長の八代城普請動員に反対した天草一揆、同一八年木村吉清の検地と土豪抑圧に抵抗した陸奥の葛西・大崎一揆などはそうした例として有名である。
 家康の入部当時、関東には、常陸国の太田に佐竹義重、江戸崎に芦名義広、安房国の里見義康、上野国の佐野富吉、下野国の宇都宮に宇都宮国綱、皆川に皆川広照、佐野に佐野了伯、烏山に成田氏長、喜連川に足利国朝、那須に那須資晴などの旧族大名(出自の古い大名)が蟠踞していた。また関東以外では、上野・下野両国の背後には越後国の上杉景勝がおり、豊臣系大名としては、駿河国府中の中村一氏、甲斐国府中加藤光泰、信濃国小諸の仙石秀久、同小諸の真田昌幸などが境を接していた(以上は北島正元『江戸幕府』日本の歴史16、小学館による。)。
 知行割は、榊原康政を総奉行に、青山忠成・伊奈忠政の二人がこれを補佐して行なわれた。知行割はどのように行なわれ、その結果、私たちの昭島市域の農民たちは、いかなる領主の支配を受けるようになったのか、次にみてみよう。
 知行割の基本方針について、『東照宮御実紀』附録巻六は、次のように伝えている。
  微録(ママ)の者ほど御城ちかきあたりにて給はり。一夜へだつるほどの地は授くまじと令せられ。また一城の主たるものは御みづから沙汰給ひ。殊に御いそぎ故大かた一人一村かぎり。また隣村つづきにて下されけり。
 すなわち、知行地の場所は、俸祿の大小によって、
 一小身の者は江戸に一日で通える範囲内。
 二城持の大身はその外延部。
 次に、知行地は、
  一村単位に隣村つづきに与える。
以上であった。その後知行地は、分散・相給(あいきゅう)(一村を複数の領主が分知すること)が著しく進行していく。
 第1図は、このとき一万石以上の知行地を与えられた家臣の配置を示している。その数は四一人で、国別にみると、伊豆国一、相模国二、武蔵国一一、上総国五、下総国一一、上野国一一である。上野国箕輸城の井伊直政一二万石、同館林城の榊原康政一〇万石、上総国大多喜城の本多忠勝一〇万石、下総国矢作城の鳥井元忠四万石が大きい。

第1図 徳川氏家臣の配置図
『東京都の歴史』より転載
北島正元『江戸幕府の権力構造』による。
大名の数や石高については異説もある。

 地域的には利根川の流域に集中している。ここには関東内外の敵性大名に対峙する態勢がよく組まれている。右の四人は、近くの城持部将と連携しつつ、上杉景勝、伊達政宗、里見義康、佐竹義宣らの動きに備えたのである。
 『東照宮御実紀』は、「一城の主たるものは御みづから沙汰し給ひ」と、家康がみずからの計画に従って城持部将の配備を行なったと述べているが、井伊直政・本多忠勝の場合は秀吉の意思が働いていた。おそらく他の万石取についても同様なことが考えられる(北島正元前掲書)。太閤検地後の大名領の知行割に、秀吉が介入したことは、文祿検地の時の島津や佐竹領国の例に明らかである。秀吉は大名の有力家臣までも掌握し、豊臣政権-大名-家臣団といった、位階制的な権力体系を全国に貫徹したのである。このことは、秀吉が太閤検地をテコに、全国最高の土地所有者になったことの当然の結果であった。なお、この万石取りの部将たちは、関ケ原の戦によって、新しく全国の覇権者となった家康の下で、大名に取り立てられていく。徳川氏の全国支配体制の原型は、この関東における入部後の知行割のなかに形成されていたといわれている(藤野保『幕藩体制史の研究』)。