C 昭島の領主

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 さきの知行割の基本方針によると、昭島市城は「御城ちかきあたり」に属する。城下の日本橋から一〇里余(約四〇キロメートル)の距離である。また、江戸の周辺に徳川氏の直轄地たる蔵入地を設定することが、幕府の基本方針であった。昭島市域には、入部直後の知行割の宛行状は現存しないので、その当時の実態はつかめないが、正保年間(一六四四~四八年)に作成された『武蔵田園簿』によると、市域九ケ村の支配形態は、拝島・田中・大神・上川原・中神の五ケ村は幕領、福島・郷地両村は給地(旗本領)、宮沢・築地両村は幕領と旗本領の相給、といった状態だった。旗本は、宮沢村=鎌田正綱・中根正成・平林正好・武嶋茂宗、福島村=内藤正総・市川友昌、築地村=岡部吉次、郷地村=中川忠明である。このうち市川(寛永四)・武嶋(同九)・中川(同一〇)の三氏は、寛永年間(一六二四~四三年)に知行地を同地に取得しているので、入部当時の領主は、宮沢村の鎌田正久・中根正重・平林正広、福島村の内藤正重、築地村の岡部吉正の五人であった(『寛政重修諸家譜』の各氏系譜)。また、『新編武蔵風土記稿』によると、作目村は「御開国の初今の高林又十郎某先祖某へ、甲州元知行替地として、当村並に上総国にて二百石を賜はりしより、世々其家の采地」であった。次に各氏の葬地をみると、鎌田氏は宮沢村の阿弥陀寺、中根氏は高麗郡久米村の長久寺、平林氏は不詳、内藤氏は福島村の広福寺、岡部氏は高麗郡直竹村の長光寺、なので、内藤・鎌田の両氏が、昭島市域の知行地に陣屋を構えて居住した旗本であったことがわかる。彼等は、「銘々が采地に、手軽く陣屋を作り妻子を置き、その身ばかり御城へ通勤」(『東照宮御実紀』附録巻六)したのであった。
 なお江戸に番町・麹町・小川町など旗本屋敷地の整備がすすむにつれ、旗本は生活の本拠を江戸に移していった。市域の領主の明確な移住年代はわからないが、ほぼ一七世紀半ばごろまでのあいだと思われる。ちなみに江戸における葬地は左表のとおりである。

 

 入部時の各領主の経歴は、『寛政重修諸家譜』によると、次のとおりである。
 鎌田正久はもと武田信玄・勝頼父子に仕えた。天正一〇年武田氏の滅亡後、家康に召抱えられ、大番に列した。入部にともない武蔵国都築、榛沢、高麗三郡の内に采地四〇〇石を賜わった。
 中根正重ははじめ、家康の長男岡崎三郎信康に仕えたが、のち家康に奉仕した。天正一九年五月三日武蔵国高麗郡久米郷の内に采地二〇〇石を賜わった。
 平林正広はもと武田氏に仕えたが天正一〇年主家の滅亡後、家康に召抱えられた。長男正用は鎌田正久の養子に入った。
 岡部吉正は後北条氏の重臣松田康秀に仕えた。後北条氏の滅亡後、氏直に従って高野山にいるところを家康に見い出され、武蔵国都筑郡の内に采地二〇〇石を賜わった。
 内藤正重は武田信玄・勝頼父子に仕えたが、天正一〇年主家の滅亡後、家康に召抱えられて甲斐国東郡の内に一五〇貫文の地を与えられた。関東入部後、采地を関東に移され武蔵・上総・下総三国の内に八五〇石を賜わった。
 高林氏は昌重(まさしげ)が該当するか。昌重は武田信玄・勝頼父子に仕えたが、天正一〇年主家の滅亡後、家康の麾下に属し、一一年甲斐国で本領七九貫余を安堵された。関東入部後、武蔵国入間・多摩、上総国市原三郡内に二〇〇石の采地を賜わった。
 彼らの出身は武田旧臣四人、後北条旧臣一人、三河給人一人、である。ここに、新しい領主を迎えて、昭島市域の近世の歴史がはじまった。