なお江戸に番町・麹町・小川町など旗本屋敷地の整備がすすむにつれ、旗本は生活の本拠を江戸に移していった。市域の領主の明確な移住年代はわからないが、ほぼ一七世紀半ばごろまでのあいだと思われる。ちなみに江戸における葬地は左表のとおりである。
入部時の各領主の経歴は、『寛政重修諸家譜』によると、次のとおりである。
鎌田正久はもと武田信玄・勝頼父子に仕えた。天正一〇年武田氏の滅亡後、家康に召抱えられ、大番に列した。入部にともない武蔵国都築、榛沢、高麗三郡の内に采地四〇〇石を賜わった。
中根正重ははじめ、家康の長男岡崎三郎信康に仕えたが、のち家康に奉仕した。天正一九年五月三日武蔵国高麗郡久米郷の内に采地二〇〇石を賜わった。
平林正広はもと武田氏に仕えたが天正一〇年主家の滅亡後、家康に召抱えられた。長男正用は鎌田正久の養子に入った。
岡部吉正は後北条氏の重臣松田康秀に仕えた。後北条氏の滅亡後、氏直に従って高野山にいるところを家康に見い出され、武蔵国都筑郡の内に采地二〇〇石を賜わった。
内藤正重は武田信玄・勝頼父子に仕えたが、天正一〇年主家の滅亡後、家康に召抱えられて甲斐国東郡の内に一五〇貫文の地を与えられた。関東入部後、采地を関東に移され武蔵・上総・下総三国の内に八五〇石を賜わった。
高林氏は昌重(まさしげ)が該当するか。昌重は武田信玄・勝頼父子に仕えたが、天正一〇年主家の滅亡後、家康の麾下に属し、一一年甲斐国で本領七九貫余を安堵された。関東入部後、武蔵国入間・多摩、上総国市原三郡内に二〇〇石の采地を賜わった。
彼らの出身は武田旧臣四人、後北条旧臣一人、三河給人一人、である。ここに、新しい領主を迎えて、昭島市域の近世の歴史がはじまった。