A 八王子の位置

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 徳川氏の関東支配体制のなかで、八王子は特殊な位置を占めていた。代官頭大久保石見守長安に率いられた一八人の代官と、武田旧臣の小人頭(こびとがしら)を中心に整備された千人同心が配置された。知行割の基本方針によると、八王子は、下級家臣の知行地と幕府の蔵入地の設定が予定された「御城ちかきあたり」に位置しており、城持部将は配置されなかった。当時はまだ、領国の内外に対し戦争体制をくずすわけにはいかなかった。八王子は、江戸城を守備する軍事上の拠点の一環を構成していた。一八代官は民政を、千人同心は軍事をそれぞれ分掌し、城持部将の配置に代わる権力の集中・強化がはかられたのであろう。八王子は後北条氏の有力な支城の一つであり、北条氏照の拠点であった(第六編第五章参照)。一方地理的には小仏峠を介する武蔵・甲斐両国の境に接していた。そうした理由から八王子は、甲州口の防備と後北条遺臣の蠢動を鎮圧する機能とを担わされたのである(村上直「八王子千人同心の成立」『八王子千人同心史料』)。
 徳川氏を迎えた関東の情勢について北島正元氏は、「北条氏の遺臣や在地勢力の抵抗があったかどうかについては、現存の徳川氏関係の史料からはとくに立証されないが、実際にはかなりの軋轢・抵抗があり、それに対して秀吉およびその方針をうけついだ家康のきびしい弾圧が加えられた、と考えるのがむしろ自然であろう。」(前掲書)といっている。
 『落穂集』をみると、関東入部当時、隅田川辺へ鷹狩りに出た家康に対し、後北条氏のある遺臣が直訴した話が載っている。家康は、
  かれわが治法の、北条が時と変りてよからぬよし、数箇条書つらねたれ共、一条として用ゆるに足らざれば、申文もただそのままに捨置しなり、
 と語って直訴の内容を一笑に付したらしい。「申文」の具体的な内容が書いてないので、徳川氏と後北条氏との施政上の相違点は判明しないが、徳川氏の兵農分離と石高制を支配原理とする新しい政策が展開されるのに対して、後北条氏の遺臣たちのあいだに不満が高まりつつあったことを推察することができよう。
 関東における徳川氏の検地は、天正一八年伊豆・下総両国に行なったのを皮切りに、翌一九年武蔵・伊豆・上総・下総・相模・上野の全領国に実施し、以後連年行なわれた。検地に、年貢収奪基盤の拡大と農民の直接支配とによって権力構造の確立・強化をはかろうとする意図は明瞭であるが、それは、後北条氏の遺臣を含む在地の土豪や名主などの利害と著しく対立したのである。この問題は、八王子周辺だけでなく、徳川氏の領国の全体に共通することであった。