『落穂集』によると、八王子千人同心について左記のごとく記されている。
御旧領のうちにて、甲斐の国の転ぜしをばことに御心とどめさせ給ひ、常々その事を仰出されしなり、さればにや江戸にて御長柄もつ御中間は、武州八王子にて新に五百人ばかりめしかかへられ、小祿の甲州侍もてそが頭とせられしは、八王子は武蔵と甲斐の境界なれば、もし事あらんときには、かれらに小仏口を拒しめ給はんとおぼして、かくは命ぜられしなり、
すなわち、八王子千人同心の成立について、
一 小身の武田系家臣が江戸から移され、頭に任命されたこと、
二 その配下として、八王子において新規に五〇〇人召抱えられたこと、
三 甲州口の防備が主要な任務であったこと、
の三点が明らかになる。武田旧臣の小人頭が起用されたのは、かれらが国境警備に豊富な経験を持っていたことと、やはり甲斐国の地理に通じていたからであろう。ここでは、以上の三点のうちで第二の点に留意しておきたい。
『八王子市史』は、千人同心の成立過程を右図のように整理している。
『八王子市史』下巻P619
小人頭は武田氏の直属家臣で目付役を勤め、在郷の中・小名主層を同心に編成して、甲斐国に通じる九口の道筋を守備した。それは、窪田助之丞・荻原甚之丞・河野伝之丞・窪田菅右衛門・原半左衛門・中村弥左衛門・志村又左衛門・石坂勘兵衛・山本弥右衛門の九人であった。天正一〇年の武田氏滅亡後、かれらはそっくり家康に召抱えられ、同一八年の関東転封には家康に従って江戸に入った。
ついで、江戸から八王子へ移されたことは『落穂集』にみた。翌一九年一二月、窪田助之丞の嫡男兵左衛門を新規に頭に取り立てて十人頭衆とし、それに同心五〇人を配属して、一〇組五〇〇人の編成とした。このとき、従来の同心二五〇人に加えるに、二倍の増員が行なわれた。『桑都日記』巻二に、「命あり、諸家浪人二百五十人を募り求めて小人となし、前と并せて五百人となす」とある。くだって慶長五(一六〇〇)年の関ケ原の戦直前、再度、同心の拡充が行なわれ、一〇組一〇〇〇人の編成となった。『桑都日記』巻二下に、「大久保石見守長安、命を奉じ、重ねて諸家の浪人五百人を募り求めて八王子郷に置き、甲州口の保障となす」と五〇〇人の増員を記している。
これが八王子千人同心の成立であった。
千人同心の整備・拡充は、八王子在陣の代官頭大久保長安によって行なわれた。新規に召抱えられた同心層の出身は、たとえば河野組の例によると、家康時代は甲斐国が多く、秀忠以後においては武蔵国が圧倒的な数を占める。嘉永七(一八五四)年の「嘉永甲寅季秋千人同心姓名在所図表」によると、「甲州武田系同心を中心としながら、北条系の土豪・名主層を組みこむことによって成立していた」(『八王子市史』下巻)ことが明らかになる。要するに、代官頭大久保長安は、配下の代官を動員して、後北条系の土豪・名主層を募り求めて同心に組織し、かれらを権力機構の末端に位置づけることで一般農民から分断し、在地勢力の抵抗を弱めようとした、と推測することができるであろう。
八王子千人同心は、近世初期の同地方を取り巻く政治情勢に規定されて、軍事力の増強と在地勢力の懐柔という二面の性格を持って成立したのであった。
『新編武蔵風土記稿』によると、千人同心の所在地は、「八王子近在三、四里四方の間」であった。前記「嘉永甲寅季秋千人同心姓名在所図表」には、「八王子を中心とした武州多摩郡・入間郡さらに相模の津久井郡を含め一六二カ村八〇四名」が記録されている。昭島市域では、寛政ごろ(一七八九~一八〇〇年)、中神村に同心株を所持している者が一人あった。中神村居住の宮崎栄蔵で、切米高一三俵一人扶持をはんでいた(馬場憲一「八王子千人同心の世襲と分布-特に河野組の実態を中心に-」『八王子千人同心史料』所収 史料は「同心高住所書」による)。
千人同心の生活について、『落穂集』は次のように記している。
同心共は常々甲斐の郡内に往来し、絹帛の類をはじめ彼国の産物を中買し、江戸に持出売ひさぐをもて常の業とせしめしとなり、
また、享保期の経世家である太宰春台の著書『経済録』(一七二九年序)によると、
当代ニハ八王子ノ千人衆バカリ、常ニ田舎ニ住テ耕作ヲ事トスル故ニ生産匱カラズ父母妻子ヲモ優ニ養フ、
と、半士半農的な生活であった。
こうした生活の形態は、千人同心の機能の変化とけっして無関係ではなかった。千人同心は、寛永期に幕府の覇権が確立し戦乱に終止符が打たれると、寛永一二(一六三五)年以降は将軍上洛および日光社参の警護の役を主たる任務とすることになった。また承応元(一六五二)年日光火消役、宝永二(一七〇五)年江戸火消役を命じられた。当初の軍事的機能からの変質が指摘される。