天保一四(一八四三)年一一月、大神村の石川成富が筆写した『見聞誌』によると、慶長一〇~一八(一六〇五~一三)年のあいだに、八王子横山村の陣屋に居住した一八代官は、深谷喜右衛門・岡上次郎兵衛・設楽権兵衛・下嶋市兵衛・雨宮勘兵衛・福村長右衛門・近山五郎左衛門・糸原勘兵衛・平岡七久助・中川八郎左衛門・市川孫右衛門・近山与左衛門・岩手佐五右衛門・筒井佐次右衛門・小宮山清四郎・諸星庄兵衛・竹本権右衛門・大久保平兵衛、であった。そして、この姓名のあとに、
十八代官文録(ママ)慶長ノ頃ヨリ八王子ニ住居セシガ、寛文七年御縄入ノ後、追々江戸へ引移リ、元録ノ初迄屋敷ヲ置、元録(ママ)之御縄入ノ砌、右屋敷跡モ畑ニ成タリ、
と一八代官の制度的沿革を記している。関東の幕領に実施された寛文七(一六六七)年の検地後、代官の江戸引揚げがはじまり、残された屋敷も元祿検地のとき畑になったことがわかる。
以上のように、関東入部後、八王子に設置された千人同心と一八代官は、一七世紀中頃にはいると相ついで、その機能を変質させていった。それを規定づけた条件はいったいなにだったのだろうか。その理由はたんに幕府の覇権確立によって戦争が終結したことだけに求めるべきではないだろう。幕藩領主がみずからを領主として再生産させるための基盤、すなわち村落の近世的な編成が成立したことと密接な関係があったと考えたい(第二節参照)。