寛永期(一六二四~四三年)、とりわけ一〇年代は、幕府の権力構造の確立した時期であった。そこに至るまでの歴史過程は大略次のとおりだった。
慶長三(一五九八)年八月一八日、伏見城で、豊臣秀吉が病死した。それを機に、文祿元(一五九二)年以来七年間続けられてきた、朝鮮への侵略戦争は中止され、在陣中の大名・武士は日本へ引き揚げてきた。この外征は、領主たちにとってなにも得るところがなかった。秀吉の死は、ふたたび領主間に権力争奪の動きを惹起した。それは、武功派の大名(徳川家康)と吏僚派の大名(石田三成)との対立として激化していった。
家康は、関ケ原の戦(一六〇〇年)に勝利をおさめて新しい覇者になった。慶長八(一六〇三)年征夷大将軍に補任され、江戸に幕府を開設した。しかし、わずか二年間で、将軍職を息子の秀忠に譲った。これは、「天下はまわり持ち」という下剋上の思想を抑え全国の統治権は徳川氏一人に帰することを宣言したことであった。
しかし大阪城にはまだ、豊臣秀頼が摂津・河内・和泉の六〇万石余りの一大名に転落したとはいえ存在した。それに、関ケ原の戦で敗れた大名・武士のあいだには、豊臣家の再興に期待を寄せる者があり不穏な情勢だった。徳川氏の前途はまだ多難だった。だが家康は、そうした障害を、方広寺の鐘銘事件を口実に大阪の陣(一六一四~一五年)を引き起こして克服した。これによって以後、領主間の戦争体勢は止揚された。このことは元和偃武とよばれる。
豊臣氏を滅ぼした元和元(一六一五)年七月、幕府は武家諸法度を制定し、大名の守るべき事項として、国禁を犯した者をかくまわぬこと、無断で居城の新築・修補をしないこと、隣国の新儀の企て・徒党を届出ること、許可なく婚姻を結ばないこと、などを明示した。また、寛永一二(一六三五)年の武家諸法度改正のとき、大名の参勤交代が制度化された(『御当家令条』)。幕府の大名統制は、着実に強化の一歩をたどっていった。その反面、幕府の忌避にふれ、改易(かいえき)にあった大名の数ははかり知れない。関ケ原の戦では、西軍に味方した大名八七家の領地四一四万六二〇〇石を没収、三家の領地二〇七万五四九〇石が削減された。合計六二二万石余で、これは当時の総石高一八〇〇万石余の三分の一強にあたった。その後、家康・秀忠・家光三代の間に、大阪の陣、幕法違反、世嗣断絶などの理由で改易・減封された大名は、のべ一二八家、石高にして一二五八万二六一石に及んだ。こうして生じた広大な無主空白地には、徳川氏の家臣団のなかから一門、譜代大名が取り立てられて配置された。さきにみたようにかれらの本拠は関東にあった。そのために関東の支配体制は大きな変動を来たした。