B 寛永の地方直し

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 寛永一〇(一六三三)年幕府は地方直しを行なった。地方直しとは、旗本の廩米取り(蔵米取り)をすべて地方取り(地方知行)へ転換した、幕府の地方支配機構の改革である。それには、寛永九年一月大御所の秀忠が死ぬと、家光が幕府の全権力を掌握し、ついで将軍権力を支える軍事力の強化に乗り出し、翌年二月軍役(武士が主君に対して負う軍事上の負担)の改正を行なった。将軍の軍事力は旗本にその中核があり、かれらの経済的基盤の強化が必至とされていた(小暮正利「寛永地方直し-武蔵国埼玉郡の事例を中心として-」駒沢大学『史学論集』六、以下同論文に依拠する)。
 ここではこの寛永の地方直しによって、昭島市域の支配形態が、前代にくらべてどのように変ったかをみてみよう。
 まず『大猷院殿御実紀』寛永一〇年二月七日条に、地方直しを指示した次の記事がある。大猷院殿とは家光のことである。
  大広間に出御なりて、両番、大番、千石以下の輩をめし、すべて二百石づつ加恩賜ふむね面命あり、一人づつ御前にめし、高目録をさづけらる、廩米賜はる輩も采邑にかへ給はり、同じく二百石づつ加へられ、廩米たまはらざるともがらは、別に二百石づつたまふ、
 ここに示された地方直しの基本方針は、次のとおりである。
 一 知行高一〇〇〇石以下の大番・書院番・小姓組番の旗本が対象者である。この三番士は、幕府常備軍団の中核的位置を占める武士団である。
 二 一率に二〇〇石を加増するが、(一)廩米取りの場合は地方取り(采地持ち)に変更し、(二)現に地方取りの者には本領とは別の場所にそれを与える。
 このことを、昭島市域を例にみてみよう。該当者は次の四人である。『寛政重修諸家譜』に以下のごとくみえる。
 内藤正総は、「寛永九年十一月十九日大番に列し、十年二月七日二百石の加恩あり、武蔵国多摩、上総国埴生、下総国香取三郡のうちにをいてすべて八百五十石を知行す。」
 中根正勝は、「御小姓となり、廩米三百俵を賜ふ、(中略)(元和)七年御書院番に列し、(中略)(寛永)十年二月七日二百石をくはへられ、さきにたまふ廩米をあらためて、上野国新田領のうちにをいて五百石の地をたまふ。」
 鎌田正綱は、「大番をつとむ。後廩米二百俵をたまひ、(寛永)十年二月七日二百石をくはへられ、廩米をあらためて采地四百石をたまふ。」
 中川忠次は、「大番をつとめ、その後組頭にすすみ、十年二月二十三日武蔵国足立、多摩、相模国大住三郡のうちにをいて五百石をくはへらる。」
 以上のうち、内藤・中根・鎌田三氏はもとから昭島市域の領主である。中川忠次は、このときはじめて郷地村を領した。基準以上の五〇〇石の加増であるが、地方直しの一環には違いない。
 ついでに地方直し以前に、昭島市域を新たに支配した旗本をみると、福島村の市川満友と宮沢村の武嶋茂宗の二人がいる。市川氏は、寛永四年一一月三日朱印状を賜わり、武蔵国高麗・都筑・男衾・比企、下総国香取・葛飾六郡の内において新墾田をあわせ、合計四三〇石余を知行した。武嶋氏は寛永九年家光に仕え、大番に属し、武蔵国入間郡に二〇〇石の采地を賜わった(『寛政重修諸家譜』)。なお短期間であったらしいが、神保三郎兵衛重利が寛永三年三月小十人組の頭となり、中神村において二〇〇石を加増された。しかしほどなく改替された(『新編武蔵風土記稿』)。
 さて、寛永の地方直しは関東を主たる対象とし、なかでも武蔵国において綿密に行なわれた。また、地方直しをうけたのは、俸祿二~三〇〇石代の下級旗本が多かった。すなわちこのことは下級家臣団を江戸周辺に集中し、かれらを軍事力の基盤とする、関東入部以来の知行割の基本方針がいっそう貫徹されたことを意味している。
 『武蔵田園簿』によると、地方直し後の正保期(一六四四~四七年)における武蔵国の支配高は九八万二一四六石余で、その領主別内訳は第1表のとおりである。旗本領の占める比率がきわめて高い。そして、旗本の六七八人中四七二人が五〇〇石以下の小知行取りで、全体の七〇%近くを占めている。

第1表 正保期の武蔵国

 地方直しは、旗本知行地の分散・相給を促進した。第2表は、武蔵国の入組んだ支配形態を表わしている。「給」とは、一村を何人の領主が分割支配しているかを示す歴史用語である。すなわち、一給とは一村一領主の支配のことであり、二人の領主の場合は二給となる。入組の実態は、二四一五ケ村のうち、一給の村一七一一ケ村(七〇・九%)、二給以上の相給の村七〇四か村(二九・一%)である。これを領主別にみると、一給の村は幕領九七八ケ村、旗本領四〇四カ村、大名領三〇三ケ村である。逆に相給の村は、幕領四三一ケ村、旗本領四八一ケ村、大名預五九ケ村で、相給率はそれぞれ三〇・六%、五四・四%、一六・三%となる。旗本領に相給、すなわち入組み支配の形態が著しい(小暮前掲稿による)。

第2表 正保期武蔵国支配形態

 ところで、拝島領における正保期の支配形態は、第3表(a)・(b)のとおりである。総石高二八〇六石七斗三升一合のうち、幕領一四一五石九斗三升一合(五〇・四%)、旗本領一三五七石八斗(四八・四%)、寺領三三石(一・二%)である。大名領はない。幕領が旗本領にくらべて若干多いだけでほぼ同じ石高である。しかし幕領の村は一三ケ村にわたるのに比し、旗本領の村は五ケ村である。村数では幕領が多かった。全村幕領は八カ村、同旗本領は二ケ村である。一五ケ村のうち、八ケ村が一給、七カ村が相給支配である。相給は旗本領に多い。

第3表(a) 正保期拝島領の支配形態


第3表(b)

 次に、旗本知行地の分散性である。当該時期における昭島市域の旗本の場合を、『寛政重修諸家譜』によってみると、第4表のとおりである。これからは村単位の知行地は判明しないが、きわめて多数の国・郡に分散していることがわかる。中根氏の四ケ国一〇郡を筆頭に、岡部氏の四ケ国六郡、市川氏の二ケ国六郡、内藤氏の三ケ国三郡、鎌田・中川両氏の二ケ国四郡のごとくである。

第4表 昭島市域の旗本の知行地分布

 こうした昭島市域の旗本の例にみられる知行地の分散と相給は、関東の他の旗本領にも共通した事態であった。知行地の著しい分散と相給は一体どのような結果をもたらしただろうか。それはまず、知行地に対する領主の支配権を弱体化せしめずにはおかなかった。一方、支配を受ける農民にとっても、領主毎に分断支配されるために、相互に協力して領主に対峙する力を弱められた。幕府は、寛永の地方直しでは、旗本の個別領主権を制限しつつ知行地を配当し、軍役量の確保をねらったのである。しかし同じ地方知行といっても、中世の給人が領地の経営に主体性を持っていたのとは異なっていた。こうした関東における領主権の弱体化は、やがて近世中・後期に治安上の問題をはらんでくる遠因であった。