絶対的な経済力を誇った幕府財政も元祿期(一六八八~一七〇四年)になると、年貢収納の低下・貿易利潤の減少・金銀山の採掘不振などによって収入が減少した反面、商品経済の発展・武士生活の奢侈化などによる支出増によって窮迫の極に達していた。すなわち、新井白石は『折たく柴の記』のなかで、当時の幕府財政の実態を左記のように記している。
今重秀(荻原-筆者注)が議り申す所は御料すべて四百万石、歳々に納らるる所の金は凡七十六七万両余、此内夏冬御給金の料三十万両余を除く外、余る所は四十六七万両余也、しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり、
幕領四〇〇万石からの歳入は金に換算して七六、七万両余、対するに歳出は一四〇万両であった。これには旗本・御家人に対する給金三〇万両は含まれていない。それを除く四六、七万両が行・家政費であるが、結局約一〇〇万両の不足である。経常収支で約二・二倍の赤字である。これに臨時支出が加わると、その赤字額はさらに増大する。『折たく柴の記』はさらに、「此外に内裏を造りまいらせらるる所の料凡金七八十万両を用ひらるべし、されば今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり」と書き記している。ここでは経常支出のなかで家臣団に対する扶持給与が三〇万両余といった多額を占めていることに注目しておきたい。
幕府は財政再建のために、なんらかの対策を講じなければならない窮地に追いこまれていた。そのために、元祿八(一六九五)年八月、勘定奉行荻原重秀が貨幣を改鋳し、出目(改鋳益金)によって財政の不足を補ったことはよく知られている。しかしこれはかえって貨幣の価値を下落させ、物価騰貴を招いて経済が混乱し、財政の窮乏化が進行した。
さて、幕府は、元祿一〇年七月二六日、
御旗本之面々、五百俵以上御蔵米地方と引替被下之候間、被得其意、組中支配方之被申渡之、書付御勘定奉行迄可被差出候、
と、蔵米五〇〇俵取り以上の旗本に対してその支給を止め、かわりに知行地を与える旨の法令を出した(『御触書寛保集成』)。ついで八月一二日には、知行地と蔵米をあわせて五〇〇石以上の旗本をもその対象とし、五〇〇石以上の旗本をすべて地方知行に一本化することにした。いわゆる元祿の地方直しを行なった。
地方直しは、その対象者は約五五〇人で、関東を中心に知行地が割渡された。またそれと並行して、旗本知行地の割替=再編成が行なわれた。そのさい、幕領→旗本領の転換よりも、旗本領→幕領のそれが中心的に推進された。つまり幕府は、地方直しに先達って、諸国にいわゆる元祿検地を実施しているが、農業生産力の高い地域を幕領化し、生産力の低い幕領は旗本領化する意図であった。蔵米取りを知行取り化することは、幕府財政の負担の軽減を意味していた(深井雅海「元禄期旗本知行割替の一考察--元禄地方直しと関連して--」徳川林政史研究所『研究紀要』昭和四九年度、を参照した)。