B 昭島市域の支配形態

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 ここでは、元祿の地方直しによって、昭島市域の支配形態がどのように変わったかをみてみよう。
 元祿一〇年の地方直しで、新たに昭島市域の領主になったのは、大神村の土岐定武、中神村の坪内定鑑(さだあき)の二人である。『寛政重修諸家譜』によると、土岐定武について、
  (元禄)十年七月二十六日廩米をあらためられ、下総国葛飾、伊豆国田方・君沢、武蔵国葛飾・多摩五郡のうちにをいて采地六百石をたまひ、すべて千百石を知行す、
 という記述がある。土岐氏は祖父頼親の代に、廩米六〇〇俵と上野国邑楽(おうら)郡内に知行地五〇〇石を領していた。また、坪内定鑑(さだあき)については、
  元祿十年七月二十六日廩米をあらためられ、下総国豊田郡のうちにをいて采地三百石をたまひ、すべて千百石を知行す、のちさきの采地、をよび豊田郡の采地を割て武蔵国都筑・多摩・高麗・比企、上総国長柄五郡のうちにうつさる、
 という記述がある。坪内氏は父定次の代に、廩米三〇〇俵と甲斐国中郡内の五〇〇石をはじめ知行地八〇〇石を領していた。
 次に、その後の旗本知行地の割替過程で、宝永四(一七〇七)年に、岡部長興が宮沢・拝島両村、太田政資が拝島・田中両村、曾雌定勇が中神村、をそれぞれ支配することになった。『寛政重修諸家譜』によると、岡部長興は、宝永元年に廩米四〇〇俵を賜わり、同四年七月一八日五〇〇石を加増され、さきの廩米を采地に改めて武蔵国多摩、相模国高座・愛甲の三郡内に合計一三〇〇石を賜わった。太田政資は、宝永三年に廩米三〇〇俵を賜わり、同四年七月一八日一〇〇〇石加増されてさきの廩米を改められ、武蔵国多摩、相模国愛甲・高座の三郡内に一三〇〇石の采地を賜わった。曾雌定勇は、元祿一六年一二月二二日二〇〇石を加増され、さきの廩米三〇〇俵を改められ、武蔵国埼玉、上野邑楽二郡内に合計五〇〇石を賜わった。その後宝永四年四月、邑楽郡の采地を武蔵国多摩、上総国夷隅二郡の内に移された。
 こうして、元祿の地方直しを機に、五人の新しい旗本が昭島市域を支配することになった。
 第5表は、享保六(一七二一)年の「武蔵国多摩郡之内山之根九万石村高改帳」(『八王子市史』下巻)によって、地領上川原・柴崎両村、旗本領楢方直し後における拝島領の支配形態をみたものである。それによると、一給の村は幕原・田中・作目三ケ村である。旗本領の相給は梅坪・谷野・大沢・中神四ケ村が二給、宮沢村は四給である。幕領・旗本領の二給は大神・築地・郷地、三給は熊川・拝島・福島、の各村であった。ここには寺社領は除いてある。正保期と比較した変化は、梅原・楢原・谷野・田中・大神・中神村が幕領から旗本領に変化したこと、拝島村に旗本領が設定されたこと、宮沢村が全村旗本領になり、福島村が一部幕領に組み入れられたことなどである。要するに、拝島領においては旗本領の増加が著しかった。旗本領の全体に占める比率が、正保期の四八・四%から七〇%になっている。しかも、相給(入組)支配がより促進された。このように、元祿の地方直しは拝島領の支配形態に大きな変化をもたらした。

第5表(a) 享保期拝島領の支配形態


第5表(b)

 このあと、昭島市域においては、宮沢村の鎌田、竹島の両氏が、それぞれ蔵米取化(享保年間)、絶家(一七四四年)などの理由で知行地を退去したほかは幕末まで、市域の支配形態にはほぼ変化がなかった。第6表は、正保期以降明治初年に至る間の領主の変遷を示した。これはあくまでも依拠した史料の時期に領主であったことを示し、それらを便宣的につないだものである。また、各旗本について石高と知行地を整理すると、第七表をうる。

第6表 昭島市域おける領主支配の変遷
正保期 『武蔵田園簿』
元禄期 『武蔵国郡郷帳』
享保期 享保6年「武蔵多摩郡之内山之根九万石村高改帳」
宝暦期 宝暦9年「組合九ヶ村惣高覚」
文政期 文政12年「御改革組合村議定連印帳」
天保期 「武蔵国郡郷帳」
明治初期 『旧高旧領取調帳』関東編


第七表 昭島市域の旗本の石高と知行地

 かれらの横顔を摘記する。『寛政重修諸家譜』による。
 中根正直(八代)は、宝暦四~九年(一七五四~五九)まで駿府城の城代を務めた。
 太田政資(二代)は、宝永三(一七〇六)年はじめて召されて御家人に列し、廩米二〇〇俵を賜わったのち、急速に上昇、正徳二(一七一二)年には三〇〇〇石の大旗本になった。理由は、妹にあった。政資の妹は、六代将軍家宣の側室で右近(剃髪して法心院と号した)と称し、家宣の子家千代の生母であった。そのため太田氏は江戸城大奥とのつながりが深かった。政資の子資之は、大奥の老女秀小路の養女を妻とした。また家宣室天英院の請によって元文三年美濃守に叙せられた。
 岡部長興は将軍家宣に仕え、その子家千代の御守役を勤めた。
 坪内定鑑(さだかね)は、宝永二~享保四(一七〇五~一九)年まで江戸町奉行を務めた。宝永七(一七一〇)年拝島領九ケ村組合と日野領七ケ村組合のあいだに起こった用水堰論の裁定にかかわった(第二章第二節三、史料編四五参照)。
 また市域の旗本は、幕府の軍事編成上では大番・書院番・小姓組番のいずれかに属していた。大番は江戸城および江戸市中の警備に当たり、有時のさいは戦闘に赴いた。書院番と小姓組番は両御番と唱えられ、ともに江戸城の警備、将軍の出行・市中巡回の随従などが主要な任務であった。