A 中世末期の「村」

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 昭島市域九カ村(拝島・田中・大神・上川原・宮沢・中神・築地・福島・郷地)の成立は、近世にはいってからのことである。
 徳川氏の関東入部以前における昭島市域の村落の構造について明らかにできる史料は存在しない。しかし、当地に人々が生活を営んでいたことは確かなことである。そのことは、市域内に中世の人々の生活の足跡を示す貴重な史料としての板碑四十一基が現存していることからわかる。また古来人々は、生活の場に精神の安らぎを求めるために寺社を勧請してきたが、『新編武蔵風土記稿』のなかに、関東入部前後の寺社に関する記述を求める(多摩郡拝島領の項)と、拝島「村」の龍津寺と大日堂について、「天正中寺領十石の御朱印を賜へり」という記載がある。これは、徳川氏が入部直後に在地勢力の抵抗を抑えるために、在地の有力寺社に対して寺社領を安堵した政策のことを語っている。また大神「村」の駒形神社について、「当社に天正一八年の棟札あり」、中神「村」の福厳寺について「天正以前立川宮内少輔が一族の居住せし跡なり」と、記述している。次に宮沢「村」の阿弥陀寺、福島「村」の広福寺はそれぞれ新しく入部した鎌田・内藤両氏が菩提寺とした寺である。上川原「村」の日枝神社は、多摩川の川辺にあった集落が大洪水で押し流されたために、替地を現在の地に得て移住してきた人々が天正七(一五七九)年に創建したといわれている。若干時代が下るが、慶長一八(一六一三)年三月大神村の東勝寺が再建され、寺名を観音寺と改称した(「観音寺由緒沿革」)。元和元(一六一五)年には上川原村の龍田寺が開創され、寛永元(一六二四)年には中神村の福厳寺が再建された(『昭和町誌』)。以上の事実は、そのころ市域内に寺社を中心として集落の存在していたことを語っている。
 当時昭島市域は「村山」の内として一括されていたようである。天正一〇(一五八二)年甲斐国の武田氏が滅亡し、遺臣の宮谷衆中は、八王子の北条氏照に召抱えられることになったが、宮谷衆中の小坂新兵衛に宛てた同年一二月二七日付の氏照印判状に、
  此度当表(八王子)へ相移候、然者住所之儀村山之内、立川分被定置候、荒野之地ニ而知行開次第其者ニ被下置候、早々彼地へ罷移可令居住候 (「小坂文書」『北条氏照文書集』八八)
と、宮谷衆中の「当表」=八王子への移転と、住所を「村山之内立川分」に定めるということが指示されている。ここには「立川」を含む多摩川の北岸が、当時「村山」と呼ばれていたこと、そこがまた「荒野之地」であったことなどがわかる。「村山」は村山郷のことである。地理的位置から言って、昭島市域は当然、この「村山」のうちに含まれていたと考えてよい。
 当時「村山」と称された地域のなかに、のちに九カ村の近世村落に発展していく「村」の成立していたことがうかがい知れるのである。