『新編武蔵風土記稿』をみると、武蔵国の村々が、「領」と呼ばれる地域で一括されている。昭島市域の村々は、「拝島領」に属している。今日まだ、この「領」について正確なことはわかっていないが、「村切り」と密接な関係があったのではないかと考えられている。煎本増夫氏は、「領」を「徳川氏の関東入部後に新しく設定された軍事、行政上の措置」であり、「国→郡→領→郷→村→本百姓という支配体系こそ徳川氏の関東支配の実現形式であった。そして又、その確立過程において、『郷』の解体-分村-を行ない。それに包含されていた『村』を独立させることによって、一層本百姓の取立政策を促進し、ここに幕藩体制に固有な『行政』的村落制度が作りあげられるのである。」(傍点は原文どおり、「江戸時代初期における武州山口『領』の在地支配の実相」『大和町史研究』3)と、入部直後の徳川氏の関東農村の支配のあり方、すなわち「村切り」政策との関係で理解されている。これは、おそらく正しいであろう。ところで羽村は、寛永一〇年代(一六三三~四三年)の年貢割付状では「山根筋拝島組羽村」、寛文七(一六六七)年の検地帳では「武州多摩郡拝島領羽村」、と拝島領(組)に含まれていた(伊藤好一「武蔵国における〝領〟について」『日本史の研究』八九)が、化政期-一八世紀初-の実態を示す『新編武蔵風土記稿』によると拝島領ではない。このことは、「領」に属する村々の統廃合の行なわれた事実を語っている。すなわち中世の「郷」が解体されて、そこから「村」が独立していく過程においては、「組」あるいは「領」といって未成熟な「村」を統括する単位が必要であったが、「村」の独立がすすみ、新しい再生産の体系が成立すると、それに適合した形での「領」の再編成が行なわれたのではなかったか。近世中期になると、「領」はなんら支配の意味をもっては使われなくなり、たんに地域をあらわす用語としてのみ残る。このことは、「村切り」によって近世の「行政」的な村落制度が確立したことを意味しているであろう。
昭島市域の九カ村が、史料上はじめて確認されるのは、正保期(一六四四~四八年)の武蔵国の領有関係を示す『武蔵田園簿』においてである。第1表は、九ケ村の村高と田・畑の別を示したものである。
第1表 正保期の村落
これによると、市域の西半拝島・田中・大神・上川原の四ケ村と東半宮沢・中神・築地・福島・郷地の五カ村とでは、開発にきわめて地域差が認められる。一見して、東半五ケ村は村高も大きく開発がすすんでいた。第9表とみくらべると、ほとんどこの時期までに、武蔵野台地を除いて開発が終了していたことがわかる。特に水田の開発が著しく、村高の五〇~六五%を占める。それに対して西半四ケ村は拝島を除くと村高がきわめて小さく開発のテンポは遅れている。そして畑が多い。
ところで幕藩領主が近世村落の構成員とした農民は、本百姓とよばれた。かれらは太閤検地ならびに近世初期の検地によって検地帳に登録された農民で、田畑・屋敷を有し、耕作に必要な用水権・入会権(山林、原野などの共同利用地の利用権)などの百姓株を持ち、同時に年貢負担者として名寄帳(なよせちょう)(耕地所持者別に石高・反別を耕地ごとに書き上げ集計したもの)に登録された。名主(みょうしゅ)百姓の血縁分家や隷属農民などが本百姓として取立てられた。そうした政策を小農自立政策と呼んでいる。幕府の「慶安御触書」(一六四九年)によると、標準的な農民は、「夫婦かけむかい」というふうに表現されている。すなわち、夫婦と子供からなる単婚小家族農民が、年貢負担の本百姓として設定されたのである。