寛永一〇年代(一六三三~四三年)は全国的に凶作の時期であった。そのために、一四年一一月には九州の島原・天草地方の農民たちが、領主の過酷な年貢収奪が原因で一揆を起こした。これらは、いわゆる「寛永の危機」と呼ばれているが、当時、幕藩領主に強い衝撃を与えた。
そこで幕藩領主は、この「寛永の危機」を克服するために、初期幕藩政改革を行ない農政の転換をはかった。幕府の場合、それは「慶安御触書」(一六四九年)に象徴されている。一般に、幕藩領主の農民支配の方針は、家康が語ったと伝えられる、「郷村百姓をば、死なぬ様に生ぬ様にと合点致し収納申付る様」(『落穂集』)にという言葉のなかに示されている。家康の老臣本多正信は、これを、「百姓は財の余らぬやうに、不足なきやうに、治むること道なり」(『本佐録』)とわかりやすく解説しているが、要するに、ここには農民の生産物のなかから、一年間の必要経費と食料を除いた余りを、すべて年貢として取立てようとする領主の姿勢が示されているわけである。領主間の戦争体制が止揚されない時期には、農民生活の必要部分にまで食い込んだ年貢収奪が行なわれたので、農民の経営はたえず不安定な状態におかれていた。そうした結果が、寛永の危機を引き起こしたのであった。
「慶安御触書」は、農民生活の衣食住ならびに農事全般について統制を加えたもので、それ以前に出された該法令の集大成されたものである。そこには農民からの年貢収奪をあくまでも前提とはしているが、「身上持上ケ候様に可仕」とか、「能々身持をかせき可申」とあって、「身上」(財産)を築くことが将励されている。つまり幕府は、年貢を収奪した上でなおかつ農民の手許に若干の剰余が残ることを容認する方針に転じたのである。そこには農民の経営維持の方針が打ち出されており、これまでの全剰余生産物を年貢として収奪する幕府農政の転換が示されている。
幕藩領主は、財政の基礎である年貢の徴収を確保し、一定数の本百姓を維持するために、新田開発・灌漑施設の整備などを行ない、小農民の自立・育成をはかった。反面、五人組制度・田畑永代売買禁止令・分地制限令・慶安御触書などによって、農民を土地に束縛した。
幕府の農民の土地緊縛政策をみると、慶長八(一六〇三)年三月二七日の覚(『御当家令条』)では、
一御料并私領百姓之事、其代官領主依レ有二非分一、所を立退候付てハ、たとひ其主より相届候とても、猥不レ可二返付一事、
一年貢未進等有レ之は、隣郷之取を以、於奉行所、互之出入令二勘定一、相済候迄、何方ニ成共可二居住一事、
と、領主側に非分のある場合には百姓が在所をはなれることを認めていた。その際、年貢の未進(未納)があれば、近隣の村の租率によって、奉行所が調停して決済させることにした。寛永二〇(一六四三)年三月一一日の土民仕置条々(同前)によると、
一百姓年貢其外訴訟として所をあけ、欠落仕もの之宿を致間敷候、若於二相背一は、穿鑿之上、可レ行二曲事一事、
一地頭、代官仕置悪候て、百姓堪忍難レ成と存候ハゝ、年貢致皆済、其上は所を立退、近郷に成共居住可レ仕、未進無レ之候ハゝ、地頭、代官構(かまい)有間敷事、
と、百姓が年貢皆済(完納)以前に移動することを禁じた。しかし、領主側に非分のある時は、年貢皆済の上で移動を認めている。
さらに領主としては、農民を土地に緊縛するとともに、その適切な分配を維持することが望ましかった。そこで幕府は、土地売買を禁止するために寛永二〇(一六四三)年三月、田畑永代売買禁止令を出した(『御触書寛保集成』)。
一身上能(よき)百姓は田畑を買取、弥宣成、身体不レ成者は田畠令二沽却一、猶々身上不レ可レ成之間、向後田畠売買可レ為二停止一事
大百姓の出現を抑えるとともに零細農の出ることを防止しようとしたのである。同じく寛文一三(一六七二)年六月に出された幕府の分地制限令も、零細農の増加を防止するためであった。左記のごとく規制している。
一名主、百姓名田畑持候大積、名主二拾石以上、百姓拾石以上、夫より内持候ものは石高猥に分申間敷候旨被二仰渡一奉レ畏候、若相背候はゝ何様之曲事にも可レ被二仰付一事 (『日本財政経済史料』第二巻)
名主は二〇石、一般の百姓は一〇石以下の者の土地の分割を制限したのであった。ついで正徳三(一七一三)年七月、分割制限を高一〇石地面一町とした。これは領主が考える標準的な農民の経営像であって、すべてがこうだというわけではない。この基準は、昭島市域の農民たちには当てはまらない。