B 寛文検地

670 ~ 683 / 1551ページ
 農政転換を契機に、農村の生産力が上昇し、それにともなって小農民の自立が進行した。そこで幕府は生産力の上昇部分を掌握し、土地の保有関係を再編して、年貢収奪の基盤を拡大する方策に出た。そこで、寛文七(一六六七)年関東の幕領に対して検地を行なった。
 昭島市域の寛文検地は、代官雨宮勘兵衛の手によって、寛文七年本田、翌年武蔵野新田に対して実施された。今日、検地帳の伝来が確認できるのは、拝島・田中・大神・上川原の西半四ケ村と東半では中神村だけである。『新編武蔵風土記稿』によると、郷地村は寛文二年代官斉藤忠兵衛によって、福島村は同八年雨宮勘兵衛によって検地が実施されているが、検地帳は伝わらない。また宮沢村については、検地帳は昔年焼失、築地村については検地の年歴を伝えない、と記述している。
 まず検地帳の記載形式をみると左記のごとくである。
 浄土
  七間四間半 上田一畝一歩    権十郎
 〃
  十八間廿間 中田一反二畝歩   甚五右衛門
 〃
  十間十二間 下田四畝歩     八郎右衛門
 これは、寛文七年二月「武州多摩郡拝島領田中村未御縄水帳」から田方の一部を任意に抜き書きした。寛文検地帳では耕地の一筆毎に、小字名、田・畑の等級(上・中・下・下々の四級)、面積、名請人(なうけにん)(検地で耕地の所持者として領主に認定され、検地帳にその名を記載された百姓)が記載されている。しかし、分米(ぶんまい)(耕地一筆の石高)の記載はない。
 また、分付(ぶんづけ)記載はほとんどみられない。それ以前の徳川検地の特色は、零細農を年貢負担の名請人として把握しても、検地帳上では「何某分何兵衛」といった「分」付記載にし、依然として分付主の土地・農民に対する権利を容認して、在地の有力農民に対する妥協策をとってきた。寛文検地帳に分付記載がみられなくなったということは、この検地で小農民の自立化がいっそう推進されたことを語っている。
 そのことについては、各村の各請人の所持反別をみてみよう。第2~6表がそれである。なお拝島村と中神村については検地帳に一部落丁があって正確を期しがたい。上川原村の屋敷については、検地帳自体が天保一四年の写で、そこには当時の屋敷名請人しか記されておらず、寛文期の屋敷名請人を確定できない。以上のような制約の下に考察するより仕方がない。

第2表 寛文7年拝島村百姓の名寄


第3表 寛文7年田中村百姓の名寄


第4表 寛文7年大神村百姓の名寄


第5表 寛文7年上川原村百姓の名寄


第6表 寛文7年中神村百姓の名寄

 名請人の数をみると、拝島村は二四五人、これが上・中・下・ぼうだ・松原・栗沢・堂・井戸はたなどの小字名を肩書につけて出てくる。しかし、検地帳が後世の写本であるために、他の検地帳と校合しても名請人の正確な一致がえられず、大部分の名請人について所属する小字を確定することができない。したがって、名請人に重複のおそれも少なくない。その他に、拝島村には熊川村七五人、田中村二〇人、上川原村五人、大神村一人、の隣村からの入作(いりさく)がいる。田中村は五十人、ほかに拝島村一七人、上川原村四人、大神村二人の入作がいる。大神村は七八人、ほかに上川原村から三人の入作がいる。上川原村は二〇人、中神村は四八人である。この両村については入作は判明しない。拝島村を一例にしただけでもわかるように、周辺村々とのあいだに、依然、出入作関係が存在している。まだ「村切り」が十分完了していないことがわかる。
 次に、名請人の階層構成をみてみよう。入作は除外してある。入作の場合、他村に生活の基盤があり、したがってそれを含めると各村の実態とは違った姿をみることになると考えるからである。便宜的に、上層=一六反以上、中層=六~一五反、下層=五反以下の各層に区分して、その比率を比べてみると、第7表のとおりである。これによると、各村とも、上層に位する農民の比率はきわめて低い。拝島村一・六%、田中村二%、大神村二・五%である。大部分が中層以下であるが、五反以下の下層の大部分が圧倒的に高い比率を占めている。上川原村の五〇%を別にすると名請人の六六・七~八八%を占めている。これらは名主百姓のもと血縁分家や隷属農民が占めていたとみなされる。このことから、検地にあたって、小農民の自立が政策的に推し進められたことがわかるのである。しかしなかにはまだ、拝島村に例がみられるが、小右衛門内七兵衛、善兵衛内加兵衛、八右衛門内角兵衛、といったような、領主側の妥協がみられる。寛文検地は、領主の政策意図としては多数の隷属農に法的に百姓身分を認めたが、それがただちにかれらに自立的な経営を保障したわけではなかった。小農民の自立には、このあとなおしばらくの時間がかかった。

第7表 (a)拝島村


(b)田中村


(c)大神村


(d)上川原村


(e)中神村

 次に各村の耕地面積と田畑の等級をみてみよう。第8表のとおりである。一見して、市域の村々は、畑が圧倒的に多いことに気づく。各村の田・畑の比率をみてみると、拝島村田一二・三%、畑八七・七%、田中村田二四・九%、畑七五・一%、大神村田二六%、畑七四%、上川原村畑一〇〇%、中神村田三〇・五%、畑六九・五%、という数値がえられる。寛文検地帳には石高の記載がないので、正保期(第1表)との比較が困難であるが、上川原村については手掛りがある。同村の寛文検地の結果は、江川太郎左衛門代官所に提出された天保一四(一八四三)年八月の「武蔵国多摩郡上河原村高反別小前帳」(指田十次家文書)のなかに書き写されているのでわかるが、それによると高四二石六斗八升一合であった。但し下々畑二反七畝一五歩分は元禄元年の高入れであるのでこのなかから差引くべきである。正保期は九石六斗九升五合だったので、それに比べて、四・四倍に村高が増加したことがわかる。他の村についても、後述する上川原村の石盛を手掛りに畑方の石高を計算すると、拝島村四三三石九斗二升八合、田中村五八石五斗五升九合、大神村一一二石七斗八升となり、それぞれ二・七、四、二・四倍の増加を示しており、田方を含めて正保以来、村高に著しい増加があったことを推測することが可能であろう。

第8表 (a)拝島村


(b)田中村


(c)上川原村


(d)大神村


(e)中神村

 次に、田・畑の等級について、便宣的に、中位と下位のあいだで分けて考えると、高い方と低い方の比率(屋敷は高い方に含めてある)は、拝島村田三九・三%対六〇・七%、畑二五・五%対七四・五%、田中村田六一・一%対三八・九%、畑三一・六%対六八・四%、大神村田八四・七%対一五・三%、畑三五・二%対六四・八%、上川原村畑一八・五%対八一・五%、中神村田六九%対三一%、畑四九・六%対五〇・四%、である。田については、田中・大神・中神三カ村に、上・中田が六〇%以上と多いが、拝島村はそれより若干おちる。畑については、拝島・田中・大神・上川原四カ村に、下・下々・切畑が六五%以上と多いが、中神村はほぼ半々である。一般に、田は比較的石盛(公定収獲高)が高く付けられるが、畑は低く見積られた。たとえば大神村の石盛は田方上一二、中一〇、下八、下々六、畑方上八、中六、下四、下々三、屋敷一〇といった具合である(石川善太郎家文書)。さきの上川原村の史料によると、中畑石盛五、下畑四、下々畑三、切畑二、屋敷七、となっている。したがって、上畑は石盛六とみなされる。上川原村の場合、きわめて低く見積られていた。