年貢の収奪であるが、田中村に寛文七年一一月五日付の「武州山根筋田中村当未御成ケ割付之事」という年貢割付状が残っている(史料編五)。代官設楽甚太郎が「庄や百姓中」に宛てたもので左記のような内容が記されている。
永高六貫四拾三文
一高三拾石二斗一升五合
高ニ六ツ五分五リンニ当午ニ五リン下
此取拾九石八升五合
右納次第
永八拾四文 此綿百二拾目
永二百八拾文 此米七斗
永三拾五文 此荏一斗七升五合
永拾八文 此大豆一斗八升
永七貫五百五文 金納
田中村の寛文検地帳は同年二月に作成されているので、これは検地後の年貢割付である。ただし村高の三〇石二斗一升五合は、正保期のそれと同じである。なぜそうなのかについてはよくわからない。年貢率=免は六ツ五分五厘(六五・五%)である。前年の午年に五厘減免したらしい。年貢賦課は一九石八斗五合で、すべて金納であった。その額は七貫九二二文。永七貫五〇五文は米の代納金で、他は畑方年貢である。村高の脇の永高六貫四三文は、これまでの年貢高と思われる。それと比較すると、一貫八七九文、つまり三一・一%の増徴である。生産力の上昇部分は、確実に年貢として収奪する意図であったことがわかる。