三 武蔵野の開発志向

684 ~ 695 / 1551ページ
 武蔵野台地の開発は、元禄期(一六八八~一七〇四年)以前において著しく進展した。
 昭島市域九ケ村における石高の増加をみてみよう。第9表は、正保・元禄・天保の三時期をとって村高を比較したものである。正保以降天保に至る間の増石は一三一〇石三斗五升四合であった。約一・七四倍の増加である。そのうち、九三八石六斗一升三合が元禄期までの増加であり、増石分の七一・六%を占めている。それに対し、元禄以降の増加は三七一石七斗四升一合、比率にして二八・四%にすぎない。近世における全国の耕地面積の推移は、慶長年間一六三万五千町歩、享保年間二九七万町歩、明治初期三〇五万町歩であった。なお石高の増加は、慶長年間一八〇〇万石、元禄年間二五〇〇万石、天保年間三三〇〇万石である。耕地は近世前半に著しく増加した。増加分の九四・三%に相当する。前半におけるめざましい開発のあとがうかがえる。この例から、昭島市の石高増加の模様は、近世の開発の一般的傾向をたどったことを示している。

第9表 村高の変遷

 石高の増加を村別にみると、増加の著しいのは、市域西半の拝島・田中・大神・上川原四カ村で、東半の五カ村宮沢・中神・築地・福島・郷地は中神村を除いて、ほとんど微増にすぎない。既に述べたように、東半の村々の開発は、正保期以前にほぼ完了していた。西半四カ村の石高の合計は、正保期の三二四石六斗九升五合に対して、元禄期一一四六石一斗七升九合と、三・五倍の増加である。しかもこの四ケ村で、市域全体の元禄期までの増石分九三八石六斗一升三合中の八二一石四斗八升四合、割合にして八七・五%を占めている。このように昭島市域の開発は、近世前期において西半四ケ村で著しく進展した。そこには灌漑施設の整備(九ヶ村用水)が考えられる(第二章第二節三)。
 昭島市域の武蔵野新田に対する検地は寛文八年にはじめて行なわれた。このときの検地は、拝島・大神・上川原・中神の四ケ村について検地帳が残っている。
 武蔵野新田の新開面積は第10表のとおりである。中神村については等級は不詳であるが、反別は五町七反八畝一七歩である。各村の古田に対する新田の比率は、拝島村二三・七%、大神村一七・九%、上川原村三・八%、中神村一九・七%となる。このうち拝島・中神両村の古田検地帳には前述のように落丁があるので、実際にはこの比率はもう少し低くなるはずである。ほぼ二〇%以下であったと考えられる。上川原村の場合、新開発面積は四反七畝一歩、石高にして四斗七升である。古田の高は四二石六斗八升一合なので、正保以降の増石の主体は武蔵野新田以外にあったとみなされるが、市域村々の一般的傾向として武蔵野台地の新開地を指摘できるだろう。

第10表 (a)拝島村


(b)大神村


(c)上川原村

 大神村は正保期の村高六三石八斗余が、元禄期の二一二石九斗余に三・三倍に増加した。問題は、この増加が、いつの段階にどの場所で中心的に行なわれたかである。第1図は、天保一四(一八四三)年九月に作成された大神村の田畑の麁絵図であるが、これによって同村の開発の軌跡をたどることができる。絵図に記載された開発地は、多摩川べりと武蔵野の四ケ所で、それぞれ寛文八(一六六八)、延宝五(一六七七)、享保一八(一七三三)、元文元(一七三六)の各年に、検地を請け高入れされている。ところが、多摩川べりの延宝五、享保一八両年の高請地は、そのすぐ後の多摩川の洪水によって荒地となっているところをみると、大神村の新開は武蔵野にはじまり、同地においてより順調にすすんだといえるだろう。

第1図 大神村
(石川善太郎家文書)

 寛文検地の古田面積は、田七町八畝一五歩、畑二七町二反七畝一〇歩、計三四町三反五畝二五歩、武蔵野新田は畑六町一反四畝二六歩であった。古・新田の比率は前述のごとく八二・一%対一七・九%である。古田検地帳にあらわれる小字名とその反別は第11表となる。小字の位置は第1図で確認されたい。絵図と検地帳の字名を対比してみると、武蔵野への開発の契機をうかがうことができる。小はけ窪の新開はまさにその好例である。上川原村は大神村の北隣に位置するが、小はけ窪はさらにその北に隣接する。小はけ窪が宮沢村と境界をなす線上を東西に「府中街道」が通っている。小はけ窪の地理的位置は、寛文期までに本村内の開発がほぼ終わり、大神村が武蔵野の開発を志向しはじめたことを語っているのである。はじめ小はけ窪に試験的に新開を行なったが、途中からそれより北の寛文八年に高入れされた地域に対して本格的な開発を着手した、と考えられる。同時期の検地で、しかも近接した場所で、一方が古田検地帳に、他方が新田検地帳に、わかれて記載されているのはそう理解することが一番妥当であろう。要するに、大神村における武蔵野の開発は、寛文検地をそれほどさかのぼらない時期にはじまった、といえる。他の村もほぼ同様であったと思われる。

第11表 寛文7年大神村の小字と反別

 この時期は武蔵野の各地で新開が行なわれた。幕府は寛文九年六月一四日、上総国笠掛野、下野国椿海および武蔵国武蔵野などにおいて、新田として開発すべき土地の調査を勘定奉行妻木彦右衛門重直に命じた。その妻木は、見分の旅程を重ねて閏一〇月一四日には拝島に滞在していた。そして同日某に対し書状を出した。それには関村(現練馬区関町)の井口八郎右衛門が開発の許可を受けたことが記されているが、他に、「武蔵野新田場は存之外少分ニ成罷候へ共、野広キ所ニ而候故、当月中ニは仕舞兼可申様ニ存候」と新田場は案外少ないこと、武蔵野は広くてとても一〇月中に調査しかねることなどを述べているのに注目させられる(『武蔵野市史』)。広大な武蔵野の原野のなかに、ぽつんぽつんと点在する新田の光景が目に浮かぶ。
 武蔵野新田の名寄は、第12、13、14表となる。拝島村は一五七人が武蔵野に耕地(畑)を取得した。単純計算すると、古田を所持する百姓の六四%が新開に乗り出している。それによると、十左衛門内角左衛門二反五畝歩、同次郎三畝一〇歩、善兵衛内加左衛門三畝一〇歩、蓮寿院内三吉一畝一四歩、八兵衛内角右衛門一畝二歩、清兵衛内喜左衛門二八歩の六人の隷属農が新たに、新開地を基礎に領主によって自立させられている。

第12表 寛文8年8月拝島村武蔵野新田の名寄


第13表 寛文8年8月上川原村大神村武蔵野新田の名寄


第14表 寛文8年8月中神村武蔵野新田の名寄

 大神村は二八人が新開地を取得した。新田の持高は必ずしも古田の持高に比例しない。新田持高第一位(七反六畝二七歩)の加右衛門は、古田四反六畝一八歩で三二位、古田の方が少ない。古田持高第一位(二町六畝一三歩)の八郎右衛門は、新田二反八畝二〇歩で一〇位である。逆に、古田持高最小(一〇歩)の市郎右衛門は、新田一反七畝一八歩で一二位。新田持高最小(一畝)の清兵衛は、古田五反二畝一四歩で二七位である。それぞれの経営事情によって開発への参加が異ったと考えられる。また小兵衛・喜左衛門・勘蔵・勘重郎・庄九郎の五人は、古田検地帳にはみえなかった。同じく新開地取得を自立の契機としたのである。
 上川原村は四人が新開地を取得した。長四郎は古田検地帳にみえない。残り三人は、当村においては持高が大きい。
 中神村は三二人が新開地を取得した。同じく新田持高は古田のそれに比例しない。古田検地帳に落丁があるので正確な対比は困難である。しかし、新開地の取得を自立の契機とした者の存在は十分に考えられる。
 要するに、武蔵野新田での耕地取得は、経営基盤の不十分な零細農や、非自立的な隷属農などの自立の契機となった、ということが考えられる。
 拝島村についてはさらに延宝元(一六七三)年一一月一〇日付の「武州多摩郡拝島村・田中村武蔵野新田酉開改水帳」(嶋田タダ家文書)が存在する。第15表はその名寄である。当地の武蔵野新田は。田中村の農民と共同開発であった。ところで検地帳の田中村の部分に朱書で×点を印し、「是ハ田中村へ入」と記してある。開発後、村切りされたのである。第13表も、大神・上川原村農民の共同開発になる武蔵野新開である。同様に、やがて村切りが実施されたであろう。それがうまく行なわれないと、のちになって村境争論が発生する。

第15表 延宝元年、拝島・田中村武蔵野新田名寄

 第16・17表は、宮沢村の領主中根氏分(九〇石)の給地についての、元禄一三(一七〇〇)年と正徳四(一七一四)年の百姓持高である。百姓の移動はほとんどみられない。ただ惣兵衛・清八郎・七左衛門の三人は正徳四年にはみえない。与十郎が新たに名前を連ねている。古田の面積は微増である。ここでも新田の開発が著しい。また、農民間の土地移動がかなり激しく行なわれている。そのことは田・畑の持高の変化をみるとわかる。なかでも太兵衛は元禄一三年には三反一畝八歩所持していたが、土地を手放して、正徳四年には新田一反八畝九歩を所持するのみである。太兵衛の跡は長三郎が引継いだ。長三郎は元禄には太兵衛と並記されていた。七右衛門は一反九畝五歩を所持したが、畑を全部、田を五畝一一歩失なって、田四畝二九歩と新田一反二畝二四歩を所持した。与十郎は新田三反二畝五歩を自立の基盤とした。

第16表 元禄13年宮沢村の百姓所持反高


第17表 正徳4年宮沢村の百姓所持反高

 武蔵野の新開は、寛文直前頃をさかいにはじまった。しかし、耕地面積の拡大を石高の増加でみるかぎり、それが急速に進展するのは、幕府の享保改革における新田開発の奨励以後のことである。元文検地はその成果を領主財政の基盤にくみいれるために行なわれた。武蔵野の開発については章を改めて記すことにしたい。