A 近世中期の開発

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玉川上水

 近世初頭における村々の耕作地は、多摩川と武蔵野台地とのあいだにある、河岸段丘上の狭い帯状の地帯であった。近世をとおして、耕作地は台地方面へと広がっていったが、この基本的な傾向は本編第一章第二節にすでに述べられている。
 それによると、近世前期のなかでもことに一七世紀後半に、市域の村々はめざましいばかりの発達をとげている。この傾向は、市域西半の村々で著しかった。石高だけでみれば、上川原村を除いた他の村々では、近世を通じての極限値近くまで増加をとげている。この限りでみれば、昭島市域の村々における主たる発展の時期は、一七世紀後半であったといえる。けれども、村々の発達はこの時期に終結したわけではなく、近世をとおして不断に続けられたのであった。
 農民による開発のあり方は、地理的環境・幕藩領主の政策などによって、各時期ごとにそれぞれに異なっていた。本節では、一七世紀後半についで、新田開発のもう一つの画期であった享保期(一七一六~三六)を中心とした、一八世紀前半の状況を明らかにしていきたい。
 近世中期における新田開発の特徴は、武蔵野台地の積極的な開発にあった。その結果として、昭島市域九ヶ村の石高合計はいかに変化したか。近世における九ヶ村石高合計の変遷を示したのが、第1表である。この表のなかでも、享保六(一七二一)年と宝暦九(一七五九)年とのあいだにおける動向を探っていきたい。そのために、この両年の差異を各村ごとに示したのが、第2表である。この第2表によれば、村高の無変化もしくはほとんど変化のないのは、郷地・福島・中神・田中の四ケ村である。村高にわずかの増加が認められるのは、築地・宮沢・大神・拝島の四ヶ村である。上川原村のみが一〇〇%以上の増加を示している。九ケ村合計では、一三〇石余が増加しており、これが享保期新田開発の成果と認められる。

第1表 昭島市域石高の変遷


第2表 享保6年-宝暦9年の石高変化

 以上まとめてみると、昭島市域内では、築地・宮沢・大神・上川原・拝島の各村で新田開発が実施され、そのなかでも上川原村がもっともめざましく、拝島・大神の両村がそれに続いたことが明らかになる。
 この期の新田開発の具体的な様相は、以下で述べていくが、開発の主要な舞台は武蔵野台地であり、そこにおける畑地の開墾であった。ここは、元来は地味の劣悪な荒地・芝地であったため、開墾された面積は、石高増加から想像するよりも、はるかに大きかった。この点に、この時期の新田開発の特質をみることができる。
 ここで「新田」という名称について簡単に触れておきたい。「新田」とは、以前からある古い耕作地、およびその耕作地に基づいて存在していた村落に対して、新しく開発された耕作地、およびその耕作地によって成立した村落を示す用語である。
 近世において、新田とは、本田に対比した用語・概念として用いられている。本田とは、近世初期に幕藩領主がそれぞれの領知で実施した総検地のとき、すでに石高を付けられて検地帳に記された耕地・屋敷地のことである。したがって、新田は近世初期総検地以降の開発になる耕作地を示すが、元禄期までに開発されたものを古新田、享保期以降のものを新田と区別することもある(註一)。なお、本田・新田の用語は、畑地にも該当するものである。