B 昭島市域と武蔵野台地

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 武蔵野台地開発の特質として、開発された面積のわりに石高の増加が低かったということは、同台地の地理的・地質的要因に基づいている。よって、武蔵野台地の自然環境を、重複(第一編第二章第二節)をいとわず、簡単に述べておこう。
 武蔵野台地は、関東平野の南西部に位置する扇状地状の洪積台地で、典型的な乏水性台地である。この台地は、標高約一八〇メートルの青梅市付近を扇頂とし、東方にむかって緩傾斜をもって展開している。そして、台地の東端は約二〇メートルの急崖をなして沖積低地につながっている。台地の周縁は、多摩川・荒川・入間川などによって画され、ほぼ長方形に近い輪郭をしている。さらに、台地面の等高線はほぼ扇状に展開して、台地の西端は関東山地の東端に接して明確に境されており、地形上の一単位をなしている。
 台地面上には、起伏はあまりみられないが、西半部のほぼ中央に紡錘状の狭山丘陸があり、地形上の変化を示している。また、台地の南西縁の多摩川沿いの地域は、流路に沿って発達した数段の河岸段丘がみとめられる。
 台地の大部分は長い期間にわたって、自然発生的に成立・成長した集落のほとんどみられない、一種の無居住地域であった。近世に入ってからようやく台地面の開拓が始まり、新田集落が成立していったが、なお玉川上水付近などに限られたものであった。したがって、享保期にいたっても、台地の大部分は荒野のままであった。この時期の代表的な地方(じかた)功者の一人であり、武蔵野地方とも関係の深かった川崎の田中丘隅でさえ「武蔵野の端々野土いか程ありても、さして御用に立たず」(『民間省要』上編巻之三)と認識していた土地であった。台地面は開拓至難の地として、ほとんど顧りみられることがなかったのであった。

武蔵野台地概観図(矢島仁吉『武蔵野の集落』より転載)

 この武蔵野台地の地質は、地表面の浅くうすい黒色土のすぐ下はあついローム層、その下には砂礫層が堆積している。このため、地表面からの水が容易に砂礫層の底まで浸透してしまうため、地下水の水位は低かった。したがって、井戸の開鑿は困難であり、さきに述べたように、典型的な乏水性台地として無居住地域とされていた。
 つぎに、昭島市域の属する武蔵野台地西半部を、やや詳しくみておこう。台地の西半部は、比較的広域にわたって平担な台地面がひろがっている。本市域付近の自然発生的集落は、その多くが水のえやすい台地の周縁や丘陵のふもとに立地していた。
 昭島市域は、台地南西縁の多摩川の現河床に近い、数段ある南向きの河岸段丘の途中の崖線にそって分布した集落列の一部分であった。この場所は、地形上の遷移点にあたる場所で、地下水もその深度が五メートル以下に浅くなるなど、集落立地の条件としての水利・日射・防風などの点よりみて、理想的なところであった。この居住地域は、扇頂部の青梅市付近より南東方向へのび、羽村・拝島を経て、立川市付近へいたる帯状の塊状集落の連鎖の姿をなした。
 右に述べてきたこの集落連鎖のほぼ中央に、昭島市域九ケ村の村々があった。近世前期までの人々の生活の場は、多摩川と武蔵野台地とのあいだの、わずかな低地と河岸段丘面を中心としていた。これに対して、享保期に入り、それまで耕作地としてはほとんど手のつけられなかった武蔵野台地面の開発が、本格的に始まったのである。
 その諸因は後述するが、開発を可能とした地理的要因として、武蔵野台地を貫流する玉川上水の開鑿があり、この上水から分流した多くの用水路の創設、さらに井戸の堀鑿においても技術水準の向上とともに、多くの助成策がなされたことが刺激になったことを、ここでは指摘するにとどめておく(註二)。