近世に入り、農民による新しい耕作地の取得がめざされ、それは一七世紀後半における飛躍的な石高の増加に示されている。まさに小農民自立の傾向が進展しつつあった過程であった。ところが、第1表で明らかなように、一八世紀に入ると、石高の増加は急速に停滞傾向を示している。この新たな状況は、農民たちがすでに自己の農業経営に十分な耕作地を確保し、もはや開墾の必要性が消滅したために生じたものではなかった。農民たちにとって必要な耕作地はいまだ不足していた。ことに隷属農民としての系譜をもち、小農民として自立することを願っていた階層の農民は、ひきつづき耕作地の拡大を切望していた。けれども現実には、一八世紀初頭における新田畑の開墾は停滞していた。
この開発停滞の理由として、
一 当時の農業経営のあり方
二 幕府の農政
の二点を考えなければならない。この二つの条件に規制されて、開墾への願望には歯どめがかけられていたのであった。
まず、当時の農業経営のあり方をみておこう。当時の農業経営は、直接の耕作地である田畑のみでは不可能であった。日常の生活や農作業の実施にとって、肥料、家畜の飼料、薪などの燃料、家屋の建築用材などは、耕作地の周辺より自給しなければならなかった。ことに主要な肥料は草肥・堆肥であり、茅・薄・灌木・下草などの、いわゆる山野の草や木の葉が肥料として用いられた。これらの諸資材を、この地域の村々は武蔵野台地の林野に依存しており、台地の林野は入会秣場(いりあいまぐさば)として、農業経営に不可欠の存在であった。
ところが、一七世紀後半に著しく進行した新田畑の開発は、武蔵野台地へ向っていった。この結果として必然的に、当時の農業経営上必須な林野資源の確保が、しだいに困難になる状況が生れてきた。ここに、農業経営を拡大するための開発と、農業経営を維持するための入会秣場の確保といった。二つの要求がするどく対立することになった。
この対立状況、つまり開発要求と秣場確保要求との対立状況は、しばしば農民間の争論となってあらわれた。これに対して幕府は、元禄年間(一六八八~一七〇四)に顕在化した財政収支の悪化を年貢増徴政策で打開しようとする見地で対処しようとした。幕府のこの期における年貢増徴政策は、あくまでも既存の田畑よりの年貢徴収確保、いわゆる本田重視主義の立場を採っていた。したがって、農民間の対立状況に対して、それはしばしば幕府の評定所に裁決を求めた争論となったが、幕府は秣の確保を重視して、開発を抑制した。一七世紀末~一八世紀初頭にかけても、農民から多くの新田開発の申請があったが、ほとんどは却下された。
この幕府の本田重視主義政策は、元禄一一(一六九八)年一月の「国郡郷村高御吟味之事」として、各村の石高・地形の調査となってあらわれている。この調査に対して上川原村は、正保二(一六四五)年以来村の景観は少しも変化なく、従来から存在している「古来之本村」に間違いのないことを述べている(指田十次家文書)。
右に述べてきたような理由により、一八世紀初頭には、新田畑の開発は一時的ではあったが、停滞傾向を示したのであった。