D 出作畑帰属出入

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 幕府の本田重視主義政策は、農民間における既存の田畑をめぐる争いを激しいものにさせた。これは田畑の拡張が期待できないために、必然的に既存の田畑に農民の眼がむけられ、その結果として所持権のあいまいな田畑をめぐる争論がひきおこされたのである。ここでは、上川原村と宮沢村との出入を記しておこう。
 元禄一七(一七〇四)年二月八日のことであった。宮沢村の農民約四〇人が上川原村との村境へ鍬や鎌をもって集まり、上川原村の畑のうえに塚を六つ築いた。これと同時に、宮沢村の使者二人が上川原村へやってきて、「両村の境の塚を六つ、只今築いたので、上川原村の惣百姓で確認してほしい。」と申し入れた。これに対して上川原村は、村境は寛文七(一六六七)年の検地で決められたことであり、殊に「農人之為身ト御公儀様軽」ことであるとして、確認を拒否した。宮沢村による確認要求は、それから一五日までほぼ連日にわたって続けられた。一六日の早朝、宮沢村の使者が来て、「六つの塚は、上川原村の惣百姓がもはや十分に確認したと思われるので、すべて取り除いた。」とつげた。これに対して上川原村の返事は、「たとえ塚を取り除いても、この一件は代官所へ通告するので、宮沢村でも覚悟してほしい。」というものであった。

現在の宮沢・上川原町境付近

 同じ一六日の昼ごろ、また宮沢村の使者が上川原村へやって来た。その口上は、「上川原村の百姓四~五人が、宮沢村の畑を耕作しているが、今年からは宮沢村で耕作することになった。この件については、上川原村の支配外のことなので、口をださないでほしい。」というものであった。上川原村は、「宮沢村の領域内の畑であっても、上川原村の農民が芝地を開墾して畑地としたものである。そのうえ、年貢・諸役も領主へきちんと上納している。宮沢村へ返す筋合はない。」と答えた。なか三日おいて同月二〇日、宮沢村は「あの畑は、当村より上川原村へ小作にだしているものである。したがって是非とも返してもらう。」と申し入れてきた。上川原村は「上川原村の者が、先祖より六~七代にわたって耕作してきた畑である。いかにしても渡すことはできない。」と答えた(史料編八)。
 この争論は代官所へ持ち込まれ、上川原村のいい分が認められた。
 この一件は解決したわけではなかった。一〇年後の正徳三(一七一三)年六月、右の畑地を耕作していた上川原村の九人の農民は、宮沢村鎌田氏知行分名主弥次右衛門を相手として、奉行所へ訴えでた。基本的な争点は、宮沢村地内で上川原村農民が耕作している畑地の所持権をめぐってであった。上川原村ではあくまでも、「先祖開発仕……代々所持仕来」ってきた出作畑であると主張した。宮沢村弥次右衛門は、「以相対ヲ小作預ケ置候所」であると主張した。宮沢村のほうでは、地頭鎌田氏の家臣が右の畑地を小作畑と認めたため、事態は複雑となった。上川原村九人と宮沢村弥次右衛門とのあいだには、小作証文や出作地の証拠もなかったことが、争論長期化の一因であった。結局、この争論の裁決は評定所に持ち込まれた(史料編九・一〇)。
 この争論は、争点となった畑地の所持権を明確に証明するものがなかったことが原因であった。けれどもその背景には、新田開発が抑止された状況のもとにおける、農民たちの所持地拡大要求をみることができる。