A 享保改革

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 一七世紀末から一八世紀初頭にかけて、昭島市域における新田開発は、他の武蔵野諸地域と同様に、停滞傾向にあった。だがこの停滞傾向は、享保一〇年代(一七二五~三四)を画期として一変していくことになった。享保改革により、幕府の農政基調が転換したからである。
 八代将軍吉宗を幕政改革にふみきらせた直接の原因は、享保初年にいたって、幕府の財政状態がもはや放置しがたいまでに悪化したことであった。享保二(一七一七)年末には、旗本・御家人への切米支給を一時的にではあったが、延期せざるをえなくなり、同六年にいたると、幕府の年貢収納量は享保元年以降の最低に落ちこんだのであった。この幕府財政の悪化の原因は、直接的には幕府直轄領=天領よりの年貢増徴政策が、意図のごとくには実現しないことであった。その要因として、幕領農民による年貢増徴への抵抗とともに、幕府の農政がこの時期の社会状態に不適合になっていたことが指摘されている。この二つが、結果として幕府財政の危機をもたらしたのであった。
 この財政危機に対して、幕府が総合的な政治的対応策を実施して、危機を克服し、本来的な幕藩制社会の姿を回復しようと図ったのが、享保改革であった。近世における本来的な社会構造からみて、政策実施の主要対象はあくまで農村であった。農村政策は年貢政策そのものであった。したがって、将軍吉宗のもとにこの時期に構成された幕府首脳部が、農民からの年貢増徴こそが財政再建の基本である、と認識していたのは当然であった。幕閣の中心人物は、水野和泉守忠之(ただゆき)であった。彼は吉宗に抜擢されて京都所司代から老中に就任し、享保七(一七二二)年五月には、改革政治実施の中枢であった財政相当の最高責任者として、勝手掛老中に任命された。以後享保一五年六月まで、諸政策の推進者として活躍した。
 水野忠之は幕府の財政再建策を検討した結果「納り方之品」と「新田取立」の二つを基軸とした政策をうちだした。「納り方」とは年貢収納方法のことである。したがって、財政再建策は、
 一 すでに存在している田畑からの年貢を、収納方法を改めることにより増徴すること。
 二 新しい年貢賦課対象地拡大のために、新田開発を積極的に推進すること。
の二つを中心としていた。この二つを実現するためには、農民の年貢負担能力を増強することが必要であり、その範囲内での農家副業としての商品作物栽培を奨励することで、農民生活の保護をはかる政策も、あわせて採用された。
 ようするに、享保改革の基調は農政にあり、なかんずくそのなかでも年貢増徴政策の実現にあった。このための具体的な政策実施において、享保期の農村諸状況に適合的な施策が立案され採用された。それが定免制の体制的実現であり、新田開発の推進であり、質地地主制の公認であった(註三)。