B 年貢増徴

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 享保改革の農政における一つの眼目として、既存の田畑よりの年貢増徴政策があった。この政策は享保改革期に特有のものではなく、近世初期以来一貫して存在していた。ことに一七世紀末から一八世紀初頭にかけて、本田重視主義のもとで新田開発が抑制されていた時期には、この増徴政策の実現が幕府財政の明暗に大きな役割をになっていた。一七世紀末の元禄年間にいたり、幕府財政の悪化が明らかになると、必然的に年貢取り立てはきびしさを増していった。まず、この期間における年貢賦課状況を、上川原村の年貢割付状によりみていこう。
 上川原村は、すでに本編第一章第一節で述べたように、天領の村であった。元禄期の村高は、本田が四二石六斗八升一合、新田(いわゆる古新田)が四斗七升、あわせて四三石一斗五升一合であった。耕作地はすべて畑地であり、したがって年貢は貨幣で納める金納であった。この村の本田部分の畑方は地味の等級によって、中畑・下畑・下々畑・切畑の四等級に区分され、これらの畑地と屋敷地とが年貢賦課対象とされていた。さらに一七世紀後半に開かれた新田が反別で四反七畝一歩(この石高が四斗七升)あったが、地味はかなり悪く、切畑に等級づけられていた。
 第3表は、上川原村本田・(古)新田について、それぞれの等級ごとの一反歩当りの年貢賦課量の変遷を示したものである。単位は永(えい)高(永一〇〇〇文=永一貫文=金一両)で示されている。この表により、元禄五(一六九二)年から享保六(一七二一)年までの期間における、年貢賦課基準の変遷が明らかになる。元禄一一年から宝永二年までの八年間は、史料が残存せず詳細は不明であるが、いずれにせよこの両年のあいだで、年貢賦課が飛躍的にきびしくなったのである。

第3表 上川原村反当り永年貢賦課量の変遷

 つぎに、第4表は、上川原村全体の年貢納入総額の変遷を表わしたものである。この表で、元禄五年と享保六年とを比較すると、年貢負担額がこの三〇年間に五〇%強も増加している。この負担増加はこの期間中における農業生産力の上昇分を、はるかに上まわるものであったと思われ、年貢取り立てがきびしくなったことを如実に示している。なお、享保七年以降は定免制が施行されたことを、あわせて述べておきたい。

第4表 上川原村年貢賦課量の変遷

 右に述べてきたように、幕府の享保改革は、昭島市域の村々にも直接的な影響を及ぼした。その影響は年貢賦課量の増大、さらに増大されたのちの定免制の施行により、高額の固定化された年貢賦課のみにとどまらなかった。むしろこのつぎに述べていく武蔵野台地の積極的開発が、この地域の村々を一変させて、近世中期以降における村びとの生活のあり方を規定していくのであった。