C 武蔵野台地の開発

710 ~ 712 / 1551ページ
 武蔵野台地面の開墾は、すでに明らかなように、一七世紀後半以降着手されて、近世における小農民の経営自立にとって、大きな契機となっていた。けれども開発の進行は必然的に秣場を狭くさせ、自給肥料にたよらなければならなかった、近世前期の農村経営に不都合な状況も同時に生れてきた。この武蔵野台地開墾をめぐる開発促進派と秣場確保派との対立が激しくなったのが、一七世紀末から一八世紀初頭にかけての、この地域のありさまであった。
 幕府の享保改革における、財政再建策の一つの柱であった「新田取立」政策が、武蔵野台地の広大な荒野・芝野に適用されたことで、開墾の是非をめぐる対立状況は、終止符をうった。これ以降、まさに爆発的な新田開発旋風が、武蔵野台地とその周縁の村々をまきこんでいったのである。
 幕府の新田開発に対する方針転換は、全国的な規模でみれば、享保七(一七二二)年七月に江戸日本橋へ建てられた、諸国開発の高札に始った。同年九月には、この新方針をうけた具体的な施策が、「惣て自今新田畑可開発場所ハ、吟味次第障り無之におゐてハ、開発可 仰付候」(『御触書寛保集成』一三五九)と提示された。今後、開墾の場所は、調査のうえ、開墾しても本田畑へ支障のないことが判明したならば、開墾を許可する、といった内容である。この年の秋には、武蔵野台地周縁の村々は、幕府にあてた開発願をあいついで提出したという。
 武蔵野新田開発の具体的な方針は、翌享保八年五月に、江戸町奉行所の中山出雲守組与力野村時右衛門・吉田政右衛門・大岡越前守組与力樋口次郎右衛門の名で、村々に示された。この方針の内容を列記すれば、
 一 従来より農民が入会地として利用してきた、在々の芝野・谷地・沼地は一円私領の場所を除き、新田開発御用地として召し上げる。
 二 もちろん、開発を願い出た村々には、村高相応の開発地を割り渡す。
 三 芝野の内で入会いにより秣を採っていたために幕府へ上納していた、芝銭は免除する。
 四 この芝銭上納地を開発地として割り渡された村々は、芝銭相当の金額を当分のあいだ米納させる。
 五 私領の村々で開発された土地は、幕領に編入する。
 六 秣場がなくては農業経営が成り立たない村々には、考慮をはらうことにする。
 七 これより以後、新田開発を理由なく妨害した者は、詮議のうえ処罰する。
というものであった。
 開発の実施は入会秣場の消滅をまねき、このために農業経営が立ちいかなくなる農民も多数でることが予想された。事実、同年の六月には、入間郡・多摩郡の二八ケ村は連印して、開発免除を願い出た。これは、既存の秣場確保を新田開発よりも重視した農民が、かなり広範にいたことをあらわしている。しかしながら、幕府の新田開発促進政策のもとで、これらの村々の訴願は退けられた(註四)。
 このような経過をふみながらも、享保期までの農業生産力の上昇に基づいた、武蔵野地域の農民たちの耕作地拡大への要望が、大勢として大きな流れとなって全面に展開し、開発は進行していくことになった。