D 開発の概況

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 武蔵野地域全体の開発状況を概観しておこう。広大な地域が、台地面を中核として開発されていった。その結果として新たに成立した村落だけでも、約八〇ケ村にのぼっている。『新編武蔵風土記稿』によれば、多摩郡四〇ケ村・新座(にいざ)郡四ケ村・入間郡一九ケ村・高麗(こま)郡一九ケ村と記されている。けれどもその実数は、必ずしも正確ではないとされている。このほかに、旧来の村が地続きの芝野を開墾して持ち添えの新田とした、無住居のいわゆる持添新田が、相当数の村でかなりの規模にわたって開発された。
 やがて、これらの開発地に新田検地が実施されて、元文元(一七三六)年一二月までに検地帳が交付され、以後正式に年貢が賦課されていった。この享保期の新田開発により開墾された土地は、総じて「水田少く陸田多し、土性は粗薄の野土にして、糞培の力に假らざれば五穀生殖せず」(『新編武蔵風土記稿』)であった。すなわち、畑地が大部分を占め劣悪な土質であったため、肥料をかなり多量に投入しなければ、諸作物の成育がおぼつかないといった痩せた土地であった。
 昭島市域内には、いわゆる「武蔵野新田」と称される、この期に新しく成立した村落は存在しない。市域で進行した開発は、すべて持添新田であった。だがこれとは別に、宮沢村では、武蔵野台地に新たな村落を創りだした。宮沢新田と呼ばれた新田(村)であり、前述した約八〇ヶ村の武蔵野新田のうちに含まれている。
 以上述べてきたように、幕府の享保改革による農政転換を画期として、武蔵野の村々はその姿を大きく変えていくことになった。享保期の新田開発は、この地域の村々の成り立ちを大きく変えるひきがねになったのであり、たんなる耕地面積の拡大ということに止まるものではなかった。以下、簡単に図式化してみよう。
 一 幕府農政の本田中心主義放棄は、従来の秣場を畑作地にかえた。
 二 農業経営を維持するために、購入肥料=金肥の使用が不可欠となった。
     この地域では、ほぼ享保期頃に、糠を肥料として使用することがひろく行なわれるようになった。またこのために、新田開発は促進されていった。
 三 畑作地の広汎な出現は、武蔵野の村々をいっそう畑作中心の地域とした。
 四 一~三の条件は、この地域の農業経営・農民生活のありかたを大きく規定し、農民が商品経済へかかわることを余儀なくさせ、促進させていった。

 

 近世後半における、武蔵野の村々をとりまく基本的な条件は、享保期の武蔵野台地の開墾によってできあがっていったのである。
 つぎに、新田開発の具体的様相を、上川原村持添新田を例にとり、明らかにしていこう。