A 開発直前の上川原

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 享保期における新田開発により、昭島の村々で石高増加のもっとも著しかったのは、上川原村であった。上川原村は、前章で述べたように、中世末期の多摩川洪水でそれまでの村域が流失したため、現在の場所へ移り住んだという経過があった。それだけに、農民数に比べて耕地面積は乏しく、耕作地拡大への熱意は並大抵ではなかった。この熱意が享保改革における新田政策の転換により、台地面へむかって一気に吹き出たのであった。本項では、上川原村の新田開発の諸状況を明らかにしていくわけであるが、その前提として、開発着手直前の様相を述べておかなければならない。
 享保五(一七二〇)年八月に代官へ提出された、「武州多摩郡上河原村指出シ」(史料編二七)という村明細帳により、この時期の村況を概観しておこう。
 村高は四三石一斗五升一合、すべて畑地で、反別は屋敷地をも含めて一三町一反三畝一六歩であった。家数は二七戸、人口は男子六七人・女子七〇人の合計一三七人と記されている。すべて百姓渡世であり、商売人・鍛冶・紺屋・牢人・出家・山伏・大工はいなかった。畑地の土壤は良質とはいえず、その作付品目は大麦・小麦・粟・稗の雑穀類、芋・蕎麦・菜・大根・ささげ(ぎ)などの蔬菜類、それに煙草であった。馬は一一頭おり、飼料の秣は武蔵野台地の芝地より苅り取っていた。薪は平地のうちで畑方には適さない不毛の土地から採った。肥料としては馬の糞、江戸より購入した人糞・小糠・灰などを使用しており、すでに金肥の導入がすすんでいた。
 江戸までの道程は府中から甲州街道を経て約四〇キロであり、八王子までは約八キロであった。村内で自給できない生活必需品は、八王子市(いち)で購入していた。また、農作業の合間には西方の山場の村々へ出かけ薪炭を買いとり、江戸へ運搬して駄賃を稼ぎ、生計の助けとした。婦女子のあいだでは、僅かではあったが養蚕もおこなわれていた。ようするに、関東地方平場(ひらば)の畑作農村の典型であったが、村域が狭かったために、農業経営の補完として村外へ駄賃稼ぎに出かけていくことはめずらしくなかった。
 各農民の土地所持高は、享保四(一七一九)年の「惣百姓持高改帳」によれば、第5表のようになる。土地所持者は全部で三〇人であるが、大神村より入作の者二人と「外(註五)」一人を除いた、上川原村本百姓二七人のうち、所持高最高の兵三郎でさえ八石余にすぎなかった。他方、所持高一石未満が一三人、一石以上二石未満が七人、二石以上三石未満が五人と、大半の者は雰細な経営であった。

第5表 上川原村享保四年持高表

 上川原村は、右に述べてきたことから明らかなように、小村ゆえの経営不安定性を宿命としていた。各農民の経営安定・村としての発展のためには、村域の拡大=新たな耕作地の取得が必要不可欠であった。ここに、「村ぐるみの願望」として、新田開発にかかわっていく下地があった、といえよう。

昭島市小字区分図