上川原村は、享保九(一七二四)年閏四月に「開発願書」(史料編一五)を代官へ提出した。この願書の冒頭には「当村地さきニ而七拾町歩之所、御開発被レ為二仰付一被レ下候様」にと記されている。つまり、当時の村境から北の台地方面へ七〇町歩の開発地割り渡しを願い出たのであった。ここで注目できることは、「七拾町歩」という広さである。上川原村の村高より考えるならば、並はずれた希望面積であった。この村の農民たちは、近隣数ケ村へ出作することによりなんとか経営を維持してきただけに、少しでも大きな割り渡し地を得ることは切実な願いであった。このために、当初から削減されることを予測して、いわゆる水増し希望をしたのか、それとも上川原村二七戸の安定した経営維持のためには、真に七〇町歩を必要としたのであろうか。
願書には、ついで「上河原村之儀者書面ニ記シ指上ケ候通之小高ニ御座候故、村々なみ之高割を以被二仰付一候得ハ、自今以後ハ百姓壱人茂相立不レ申候」と述べられている。すなわち、上川原村は小さな村なので、村高に比例した開発地の割り渡しでは、今後百姓経営を成り立たせていける者は一人もいないであろう。だから、経営を維持し、年貢を規定どおり納めていくためには、七〇町歩の開発地を必要とする、という説明である。
しかしながら、実際に上川原村へ割り渡された開発地は、わずか九町五反歩にすぎなかった。これは上川原村の農民にとって、あまりにも少なすぎる割りあてでしかなかった。残された方便は、近隣の村々との交渉により、他村の割りあて分を譲り受けることしかなかった。
そこで名主七郎右衛門は、交渉に奔走した結果、隣村拝島村より玉川上水の流水路の両側にあった萱年貢上納地を、譲りうけることに成功した。この土地もやはり地味の悪い荒地ではあったが、上川原村には貴重であった。この「拝島より譲分」は、この年の五月に正式に上川原村へ編入された。このとき、この土地を分割所持することになった七人より、仲介の労をとった七郎右衛門へ、「貴殿之御世話御礼分ニ遣シ可レ申候三町歩之儀、地所ハ何方ニ而も御心次第可レ然場所ニ而、壱ケ所ニ而三町歩御割取可レ被レ成候」と、三町歩の開発地が謝礼に贈られている(史料編一六・一七)。
ところで、代官所より直接に上川原村へ割り渡された開発地である「御割渡分」九町五反歩は、翌六月につぎのように配分された(史料編一八)。七郎右衛門・重郎右衛門への特別付加分として一町四畝歩を除いた、八町四反六畝歩を村の本百姓へ家並に高下なく、一戸につき三反七畝七歩ずつ配分した。
このようにして、上川原村の農民たちはそれぞれに開発地を取得して、以後開墾に着手していくことになった。以上が、開発地割り渡しまでの動きである。
なお付け加えておくならば、名主七郎右衛門は、開発地の取得をめぐって村内で重要な役割を荷った。上川原村における開発は、その積極的推進論者であった七郎右衛門の主導下に実施されていくのである。ときに七郎右衛門はまだ二八歳の若さであった。