C 開発の始まり

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 享保九(一七二四)年六月、開墾が開始されはじめた時点における、上川原村の土地割り渡し状況を示したものが、第6表である。この村の開発地反別は、代官所よりの「御割渡分」と、拝島村より譲渡された「拝島より譲分」とを合せて、都合六八町八反三畝二三歩であった。

第6表 上川原村開発地割り渡し表

 農民ごとの取得状況をみておこう。まず「御割渡分」を取得したか否かにより、二つのグループに分けることができる。これを取得した者は農民番号l~25番の二五人で、その反別は原則として均等であった。したがって、1~25番の農民は開発地割り渡しの時点以前からの本百姓身分の者であり、村の正式な構成員であったとされよう。つぎに「拝島より譲分」の取得状況をみると、これは一八人が取得しているが、その反別は不均等であった。この一八人のうちで、一二人は1~25番に含まれる本百姓身分の者であるが、残りの六人(26~31番の農民)は「御割渡分」を取得していない者であった。したがって、「拝島より譲分」に関しては、金銭などにより農民が個人の資格で取得したと判断できよう。
 なお、26~31番の六人は、「拝島より譲分」の取得を契機として1~25番の本百姓身分の者より、分家して独立した者と判断される。この六人について、本百姓身分の者との系譜上の関連を、享保五(一七二〇)年四月の「上川原村宗門人別改帳」により、判明したものに限って第7表に示しておいた。

第7表 新規本百姓の系譜一覧

 このようにして各農民に割り渡された開発地は、当然のことながら芝地や荒地であり、いきなり耕作を始めることは不可能であった。農民たちはこの芝地や荒地を、畑地に造成しなければならなかった。もちろん、造成がおわるまでは少しの収穫もなかった。近世では、この開発造成の期間を鍬下年季(くわしたねんき)とよんでいた。鍬下年季とは、新田畑の開発当初から、検地により課税対象として登録されるまでの開発途上の期間で、年貢が大幅に減免されるものである。享保期の武蔵野台地開発の鍬下年季は三年間と設定された。
 けれども、年貢負担が全く免除されたわけではなかったから、たとえば享保一〇年のばあい、開発御役米という名目で、開発地一反歩につき永約一一文の割りで金納しなければならなかった。上川原村で最大の開発地を取得していた平八郎は、金二両二分と銭二〇九文の負担であった。
 三年間の鍬下年季がおわると、いまだ検地が実施されていなかったので、幕府は開発場御年貢の名目で年貢を賦課してきた。この規準は、すでに開墾されて「畑方」となった部分には反当り永二八文、いまだ開墾されず「連々可開分」として芝地のままであった部分には反当り永二〇文であった。これはかなり高率の年貢で、経営の安定しない農民には負担不可能な、いいかえれば実情を無視した賦課であった。