D 進まぬ開墾

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 享保一四(一七二九)年、開発が始まって五年が経過したおりの、上川原村の様相をみておきたい。
 第8表は、この年の三月における農民の開発地所持状況を示したものである。まず総反別では、享保九年の六八町八反余から三六町九反余へ激減している。これにともなって、各農民の所持反別でも、13番長兵衛を除いて他はいずれも減少している。ことに享保九年段階で所持反別の大きかった層は、その減少傾向が著しい。この要因としては、つぎの三点を想定することが可能であろう。

第8表 享保9→14年の所持反別変化

 一 開発地を当初から売却することを前提として、自己の開墾しうる以上の反別を取得していた。
 二 未開墾状態のもとで、高額の開発場御年貢の負担に耐えられず、所持反別を手放した。
 三 第8表より、享保九~一四年のあいだに反別計測の規準変更があったのではないか。したがって、実際の反別減少は統計よりも小さい。
 また、第8表より、所持反別を規準とした階層構成表にしたものが、第九表である。この第9表により、享保一四年段階では三二人中二八人が二町歩未満の開発地しか所持していないこと、所持反別の減少傾向は村全体に共通していることがさらに明確となる。

第9表 新田所持反別階層構成の変化

 そこで、この時期の農民経営の実態を、開発の進行状況と年貢賦課量とを検討することにより、探っていくことにしよう。第10表は、「年貢割付状」により、開発場御年貢段階における年貢賦課状況と開発の進展程度とを表わしたものである。まず注目できることは、享保一四年秋までに実際に開墾された畑地は二町余(全体の五%強)にすぎなかったことであり、そののちも享保一九年までは全く停滞していることである(註六)。このことは、開発が遅々として進まなかったことを如実に示している。

第10表 開発進展の程度と年貢賦課量

 この開墾停滞の理由として、享保一四年まではことのほか、開発場御年貢が重かったことを考えなければならない。のちに新田検地が実施されて、正式な年貢賦課がなされるようになった時期の年貢負担額は、後述の第14表に示してあるように、永五貫二六七文であった。つまり、開発途上の暫定措置としての開発場御年貢は、正式な年貢よりも重かったのである。このことにより、前項で述べた幕府の新田政策における意図は、年貢増徴の実現にあったことが証明されるのである。
 幕府による過重な年貢賦課は、上川原村のみならず、開発途上の村々すべてに重圧としてのしかかっていた。事実、この時期には年貢不納状態が、武蔵野の開発地を抱えた村々では一般的な状況であった。
 高率の開発場御年貢は、次項で概観する新田(村)には、経営の基盤すらできていなかっただけに、いっそう重い負担であった。幕府は年貢不納を理由に、新田(村)の出作農民への家作料の支給を拒んだ。これに対して、出作農民は家作料・農具料の支給、および年貢賦課率の引き下げを争点として、幕府と交渉をくり返した。享保一五年の暮になって、幕府は出作農民の要求を全面的に受け入れて交渉は妥結し、家作料は支給され同年以降の年貢賦課率は大きく下ることになった(註七)。
 この経過をうけて、上川原村の開発場御年貢も、第10表で示したように、享保一五年以降は大巾に下った。