E 享保末年の災害

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 開発場御年貢は享保十五年以降大巾に下ったが、開墾は少しも進展しなかった。さらに、本田に対する年貢賦課率は上昇傾向を示していた。このもとで、農民の経営はいっそう困難さを深めていった。これに追討ちをかけるように、上川原村は享保一八(一七三三)年から翌一九年にかけて、大規模な災害に見舞われたのであった。
 享保一八年春は、麦作が潰滅的な被害を蒙り、被害のもっとも少なかった畑地でも、「六歩通荒」といった状態であった。第11表は、同年四月に代官所へ提出した被害状況を示したものである。この表から明らかなように、下々畑・切畑といった生産力の低い、元来が地味の悪い畑地の被害が甚大であった。さらに翌一九年には、六月よりたびたびの出水に見舞われて、秋にかけて多くの畑地が冠水し、作物が腐ってしまった。この被害状況を、同年八月の「当寅年悪水荒畑反別改帳」と、翌九月の「当寅年野水湛腐り畑改帳」により示したのが第12表である。冠水した畑地は全体の三五%にも達し、このために腐ってしまった作物は同じく八%にのぼった。ここで注目したいことは、この村では良質な畑地である中畑・下畑の被害が大きかったことである。これは、中・下畑が村域内では窪地を中心として存在していたため、土壤の水はけの悪さが被害を増幅させたのであった。村の人々の経営はこれらの畑地を中心に展開していたと考えられるだけに、個別の経営に与えた打撃は、数字の示すものをはるかに越えたものであった、と考えられる。

第11表 麦作損毛状況


第12表 享保19年秋出水被害状況

 この両年にわたる災害は、上川原村の農民の開発地保持を困難にさせ、享保一九年にはその一部分を手放すことを余議なくさせた。三町八畝歩を宮沢村へ譲渡したのであった。せっかく取得した上川原村農民の経営安定には少しでも多く必要な開発地を、放出することでこの危機をのりこえていったのであろう。