幕府は、これより先の享保一一(一七二六)年八月に、新田検地条目三一ケ条を公布していた。この検地条目は、たとえば田畑の等級が従来の三等級から七等級に細分化されているなど、年貢増徴策の一環として制定されたものであり、農民には厳しい内容であった。武蔵野新田の検地はこの検地条目に基づいて実施され、それは未開墾の芝地をも含めて一切の土地を、年貢納入地に認定してしまうものであった。
上川原村の新田検地もこの方針により実施され、その結果は第13表に示したようになった。反別で三一町五反九畝六歩・石高で六六石五斗八升九合が、畑方の年貢納入地として認定された。しかしながら、畑方に認定された反別が、すべてこの時点までに開墾されて畑地となっていたわけではなかった。わずか二年前の享保一九年当時、畑地として開墾されていた反別は二町七畝七歩にすぎず、あとは芝地のままであった。この開発の進行程度からみて、検地にさいしては検地条目の方針どおり、未開発の芝地をも畑地として登録されて年貢が課せられた、とみるのが妥当であろう。
第13表 上川原村持添新田の概要
この新田検地の実施により、上川原村の年貢負担は増大することになった。翌元文二年の年貢割付状から、この実態を明らかにしておこう。武蔵野新田に賦課された年貢負担額は、第14表のとおりである。元文二年の負担額は永五貫二六七文であり、享保一九年分と比較すると約二五%の増加であった。農民たちは、このような年貢増徴に対処するためには、開墾を促進させて畑地を創出しなければならなかった。しかし畑が増えることはそれだけ秣場としての芝地の減少となり、農業経営の展開に支障をきたすことになっていった。
第14表 武蔵野新田分年貢負担額の推移
つぎに、検地当時における各農民の新田所持状況を述べていこう。第15表は、元文二年一一月の「新田御水帳写名寄帳」により、作成したものである。さらに、所持高別の階層構成表を第16表としてあげておいた。
第15表 上川村新田分所持高表
第16表 元文2年新田分所持高の階層構成
所持高では、3番源兵衛・12番治兵衛の二人が群を抜いて大きく、他方で所持高一石未満の者が全体の約四五%にあたる一五人もいた。そこで、各農民の所持反別に関して、享保一四(一七二九)年段階(第8表による)と元文二(一七三七)年段階とを比較してみよう。両年の所持反別の判明する農民は、二八人である。このうち所持反別を増加させた者八人、減少させた者は二〇人であった。増加させた八人のうち、4番半左衛門・16番伊右衛門・24番平右衛門・26番宇右衛門の四人は、その増加率が著しかった。このように、全般的には所持反別の減少傾向にありながらも、何人かは増加させていった。さらに全農民のあいだで所持地の移動がみられることは、新田経営の不安定性を顕著に証明している。
新田検地帳の交付は、幕府の政策上では新田開発の一応の達成を示すものであったとしても、現実に開墾に従事していた農民たちにとっては、まったく違ったものであった。農民たちにとっては、決して開発の修了でも経営安定のはじまりでもなく、まさに年貢負担の増大であった。このことが農民の生活・経営に大きく影をおとし、従来の村落秩序に深刻な影響を及ぼしていったのである。