享保期の武蔵野台地開発で、それまでの無居住地にまったく新たに成立した村落が、いわゆる「武蔵野新田」である。その数は、『新編武蔵風土記稿』によると八二ケ村、また『小平町誌』によれば七八ヶ村とされている。この「武蔵野新田」のなかに、宮沢新田がある。市域内の宮沢村を親村として成立した新田(村)であった。この新田は、市域北端に隣接しており、現立川市域内の村であるが、「武蔵野新田」および代官川崎平右衛門の治績とともに、簡単に触れておきたい。
村落としての「武蔵野新田」は、新たに生活の本拠を求めて移住してきた農民たちによって成立した村であった。ここの農民たちは、持添地開発の農民が従来の経営を基盤としながら耕作地拡大をめざすことができたのにたいして、あらゆるものを創出しなければならなかった。この農民たちを待ちうけていたものは、苦渋にみちた開墾の日々であった。もともとが貧しい農民たちであった。農家の次・三男などで、親元にいては分家・独立できないので、新田(村)で独立した生計を築いていこうとした者たちが多かった。したがって、おおむね年令は若く、夫婦と子供一~二人が典型的な家族構成であった。
このような出作農民は、開発許可がおりて四年目、享保一二(一七二七)年頃からやっと開墾地に姿をみせはじめた。つまり、開発の開始当初は、ほとんど希望者がなかったのである。そこで、幕府は開発の遅れを憂いて享保一一年に、武蔵野台地を中心として近在一帯に、好条件をつけて出作農民を募集した。この条件とは、開発助成金として家作料を一戸金二両二分、農具料として一反歩開墾するごとに銭六二四文を支給する、というものであった。幕府による奨励金つきの募集に応じるかたちで、翌十二年頃より出作農民が集ってきた。このようにして、新田(村)開発地は、親村農民の持添え、親村より分家して入植した者、近郷地域より入植した者などにより、開墾が進められていくことになった。
開発地は、くりかえし述べてきたように、地味が悪く土地生産性は低かった。さらに天候の影響をうけやすく、しばしば凶作にみまわれた。出作農民の生活基盤は不安定であり、凶作の被害も大きかった。それに加えて幕府は、当初約束した開発助成金の支給を、年貢不納を理由に履行しようとはしなかった。
新田検地直後の元文三(一七三八)年に、この地域をおそった大凶作の被害は、新田(村)には甚大であった。『小平町誌』によれば、武蔵野新田七八ケ村の総戸数一三二七戸のうち、この時期までに一六一戸が「潰(つぶれ)百姓」となって、経営が成り立たず離散していった。