幕府首脳部は、元文三年の大凶作による武蔵野の村々の疲弊・窮状を、深刻にうけとめた。将軍吉宗はこの地域担当の代官上坂安左衛門を呼んで、直接に事情説明を求め、指示を与えた。
上坂安左衛門は押立村(現府中市)に赴き、米穀を調達して窮民の救済にあたることになった。押立村には声望のある名主がいた。この名主川崎平右衛門は、農業関係諸技術に詳しく、家は富裕で、以前にも凶作のおりには自分の貯蔵穀物で貧窮民を救済した実績があった。そこで、代官上坂安左衛門は元文四年三月に、平右衛門を南北武蔵野新田場世話役に推挙し、新田村々の窮民救済にあたらせることにした。
精農であり地方(じかた)巧者であった川崎平右衛門の治績は、その業績を著した『高翁家録』に詳しい。このなかには、この期の新田(村)の窮状が左のように記されている。
出百姓家数千三百弐拾軒余有レ之、内不レ及二御救一ニ可二取続一百姓九軒ならてハ無レ之、
つまり、出百姓一三二〇戸余のうち、救済を請けなくても経営の維持可能な者は、わずか九戸しかない。さらに、出作農民の窮乏を具体的に表わした記述として、
壮成女漸ク腰迄有レ之きれ/゛\のつづれを着し、炉之内え足踏込病気之由ニ而かゞミ居候類も有之、
とある。身体を被う着衣すらなく、外出もできないほどの生活困窮者のありさまである。
川崎平右衛門の農民救済事業の特質は、農民の勤労意欲を鼓舞して、自力で困窮状態から立ちあがるように、誘導しようとしたところにあった。この基本理念のもとに、さまざまな農民保護策・営農指導策が展開された。このような施策の一つに備荒貯穀制度があり、それは毎年各戸より稗を五升ずつ供出させて貯蔵しておくものであった。この制度は、以降拡大継承されて発展し、時々にこの貯穀を売却してその代金を利殖し、毎年各戸にその利金を「養料金」として平等に配分した。この一戸あたりの金額は多くはなかったが、零細な農民には貴重であったことであろう。
このような平右衛門の新田(村)再建策により、武蔵野新田の村々は崩壊の危機をなんとか抜けだしていった。やがて一八世紀後半すぎになると、新田(村)は畑方における商品作物栽培の進展により、発展期を迎えていくのである。川崎平右衛門は、延享元(一七四四)年代官に昇進し、ついで寛延二(一七四九)年に伊奈半左衛門忠辰と交代して美濃国(現岐阜県)に転出、明和四(一七六七)年その任地で死亡した。
平右衛門の死後二〇年余たった寛政一一(一七九九)年、武蔵野新田八二ヶ村の農民は、川崎平右衛門と伊奈半左衛門の供養として、榎戸新田(現国分寺市)の妙法寺境内に常夜の石燈籠を建立した。